岡崎ホープチャペル発行の週報(2025.7.13)より
聖書箇所:列王記 第二 7章 3~10節
普段なら食べることのないろばの頭や、
鳩の糞が考えられない高額な値段で売られている。それほど絶望的な状態にサマリヤは陥っていました。しかしエリシャは神のことばを宣言します。
さて、ツァラアトに冒された四人の人が
「町の門の入り口にいた」とありますが、ここは町の中ではなく、外です。ツァラアトの人々は、町の中に住むことが出来ず隔離されていました。敵が攻めて来ても町の中に入れてもらえず、アラムの軍勢と町の間で板ばさみになっていました。当然彼らは町の中にいる人々よりも先に食べるものはなくなり、体力も気力も尽き果てていたでしょう。そんな彼らが、大きな決断をします。神さまの働きはいつも弱い者たちや小さい者たちの一歩から始まっていきます。自分に絶望することを、神さまはご自身の救いに向かうための一歩とされます。困難の中で、絶望の中で、神さまにより頼む一歩を主が導いてくれます。
「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
ローマ人への手紙 10章11節
ツァラアトの者たちは敵地において
あり得ない祝福を味わうことになります。死からいのちへ、まさに人生の大逆転を体験します。しかし彼らは突然、自分たちだけがその喜びを味わっていることに疑問を覚えます。この救いの良い知らせを、サマリヤの人々に知らせることを私たちはためらっていると。それは正しくない。彼らは明け方を待たず、すぐにサマリヤへと向かい、この良い知らせを伝えに出かけます。自分たちを疎外したサマリヤの人たちでありましたが、神さまのあわれみが与えられ、彼らのいのちを生かすために弱っているからだを引きずり、また祝福を伝える者として戻っていきます。
彼らは神さまの本当の豊かさを存分に味わったのでしょう。
それまで得ることのできなかった豊かな食べ物と宝物を受けました。私たちもどうでしょうか?私たちも、イエスさまの恵みによって豊かな永遠の祝福といのちを与えられています。主にあるカバーリングの中で生かされています。その恵みを自分だけのものとしてとどめているなら、それは神さまの前にどうでしょうか。ツァラアトの者たちは、神さまの大きな救いの喜びをサマリヤの人々に分かち合うべきであると気づかされました。私たちもそのように召されています。救いの喜びを伝える者でありましょう。ハレルヤ!


