岡崎ホープチャペル発行の週報(2025.10.5)より
聖書箇所:ペテロの手紙 第一 1章 17-21節
17また、人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。
18ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
19傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
20キリストは、世界の基が据えられる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました。
21あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。
18ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
19傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
20キリストは、世界の基が据えられる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました。
21あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。
私たちが神を父と呼ぶのは、救われて「神の子」とされたからです。
万物を創造した神と、親しい関係に入れられたということです。神を恐れるとは、日本の神概念のような「たたりを恐れる」ような恐怖ではなく、「神を信じ敬う」ことです。それは、私達が父と呼ぶ神が、「人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方」であるからです。
コリント人への手紙第二 5章10節でパウロは、
「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」と記しています。キリストを信じる者は、どのように人生を生きたかが問われる時が来るということを知っておかなければいけません。それは滅びへのさばきではなく、報いをいただくためのさばきです。神はえこひいきなさる方ではありません。私達人間は人の外見をみるが、神はその人の真の姿を見られるお方です。人の目には隠れていても、私達の全てをご存じで公正なさばきをされるのです。
17節後半に「この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい」とあります。現代の私達は、平均寿命から考えると40代で人生の折り返しとなるそうです。日々を過ごすこと、それは確実に私たちに残された時間が少なくなってきているということです。私達は誰もが遅かれ早かれ神の前に立つことになります。だからこそ、残された時間が決して多くない事を覚え、やがて来る御国を待ち望みながら神を恐れつつ今を生きていきましょう。


