「クリスチャンとしての責任③」ペテロの手紙第一 講解 第31回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2026.3.8)より
聖書箇所:ペテロの手紙 第一 2章 13-17節

13 人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、
14 あるいは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめるために、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。
15 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。
16 自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。
17 すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。

これまでは、クリスチャンの責任として、

神を信じない人が作ったルールにも従うことが勧められてきました。彼らも神から立てられた存在であるとして、従うようにという勧めです。

 しかし「従う」ということを正しく理解するために、大切なことがあります。それは、私たちキリスト者が「自由な者」であり、自由人として行動するということです。一見すると「従いなさい」という勧めと矛盾しているようですが、クリスチャンとは自由な存在なのです。だれの奴隷でもなく、だれかに強制されたりもしません。

 けれども、その自由は「放縦」ではありません。「放縦(ほうじゅう)」とは、規律や節度がなく、気ままでわがままな様子を表す言葉です。自分の思うままに振る舞い、好き勝手にしたいことをするというのは、聖書の指す自由ではありません。

 ですから、このように書かれているのです。
16節 自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。

神に従うとき、私たちは罪の力から解放され、自由になる

クリスチャンは自由ですが「神のしもべ」なのです。むしろ、「神のしもべ」であるからこそ自由なのです。なぜなら、神に従うとき、神に自分を明け渡すとき、神のご支配に自分が移されるとき、私たちは罪の力から解放され、自由になるからです。言葉としては矛盾しているようですが、これは真理です。

 神のしもべになるとき、私たちは自分のプライド、恐れ、不安から解放され、主にある自由がなんであるかを知ることになります。逆に、神に従うことをやめるとき、私たちは罪の奴隷、自己中心という自我、プライドの奴隷となります。その結果、恐れや不安に支配されるようになります。

 キリスト者とはだれにも支配されない自由人であり、かつ、すべての人に仕えることができる。この両者が同時に成り立つのがクリスチャンなのです。「神のしもべ(従順)」 により 「真の自由(解放)」に至る。それは、神に従うほど、自分を縛るもの(罪・自己中心)から自由になれるという神の真理の循環なのです。