「苦しみを受けても④」ペテロの手紙第一 講解 第36回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2026.4.12)より
聖書箇所:ペテロの手紙 第一 2章 24-25節

キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。

神の義、神のみこころに生きるため

 今週で2章も最後です。24節前半でペテロは、「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた」と記しています。主イエスが私たちのために苦しみをお受けになったのは、私たちの罪をその身に負うためでした。罪のないキリストが私たちの罪を負ってくださった。それは、罪のないキリストだからこそ、私たちの罪を負うことができたのです。

イエス様は私たちの罪を引き受けて、罪ある者としてさばかれ、罪に対する神の聖なる怒りという、私たちが受けなければならない罪の報いを、代わって受けられました。

イエス様がそのように私たちの身代わりになってくださったのは、単に、私たちの罪の償いをするためではなく、明確な目的があったのです。それは、「私たちが罪を離れ、義のために生きるため」(24節後半)でした。それはつまり、私たちが、神の義、神のみこころに生きるためです。イエス様が私たちの罪を引き受けてくださったので、私たちは罪を離れ、義のために生きることが可能になったのです。

そればかりではなく、主イエスの苦しみ、十字架の苦しみは、私たちが癒やされるためでもありました。「その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた」とあります。当時、この手紙の読者の多くは奴隷でした。彼らにとって鞭で打たれることは大きな悩みであり不当な苦しみでした。しかし、それもキリストの「打ち傷のゆえに」癒やされる、というのです。キリストに出会う以前は、ただ苦しみ、嘆き、絶望していただけかもしれません。しかし今は違います。十字架にかかりよみがえられた主は、すべてを知り、すべてを支配するお方です。自分の人生は、この方の御手の中にあるのだと分かったのです。ですから、ペテロはこう結びます。

25節「あなたがたは羊のようにさまよっていた。 しかし今や、自分のたましいの牧者であり 監督者である方のもとに帰った。」

私たちも人生において苦しみにあいます。不当だと思える苦しみにあうこともあります。しかし、それで人生を呪ったり、人を恨んだり、責めたりすることなく、牧者である主イエスのもとに帰り、癒やされ、養っていただけるのです。