岡崎ホープチャペル発行の週報(2026.9.13)より
聖書箇所:ペテロの手紙 第一 4章3-6節
「あなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、それは過ぎ去った時で十分です。異邦人たちは、あなたがたが一緒に、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い、中傷しますが、彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。」
私たちの神は、さばかれるお方です。
救われた者たちもやがて神の御前に立つことになります。それは、罪赦され、永遠のいのちを与えられた者として神の御前に立つのであって、神のさばきを恐れる必要はありません。 それどころか、さばきの時は私達にとっては天の故郷に帰ることであり、いつくしみ深い天の父の前に立つ喜びの時なのです。
しかしまた同時に、私たちは神の御前で自分の人生について報告することになります。イエス様も「タラントのたとえ」(マタイの福音書25章14〜30節)で、預かったタラントを生かしたかを主人に報告する様子を教えておられます。
信仰の歩みは他者と比べる必要も、完璧を目指す必要もありません。
神から与えられた命や賜物に感謝して恵みに生かされるのか、自己中心に生きるのかの問題です。私たちには確かに悩みや苦しみがあります。その中でも神に頼りながら、与えられた賜物を生かしつつ、自分の思うようにではなく、神の思うように用いられる人生を送らせていただくことができたなら、どんなに幸いでしょうか。
最後に、テモテに送られたパウロの言葉を見てみましょう。
「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」
[テモテへの手紙 第二 4章7~8節]
[テモテへの手紙 第二 4章7~8節]
このように書き送ったパウロと同じ御霊によって私たちは生かされています。信仰の歩みには戦いがありますが、今週も互いに励まし合い、神によって生かされていきましょう。

