私たちに、ふさわしい礼拝

信望愛(Okazaki Hope Chapel Monthly Bulletin)2026年10月号より

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」
ローマ人への手紙12:1

私たちに、ふさわしい礼拝とはなんでしょうか?
そもそも礼拝と言うと、何を思い浮かべるでしょうか。ある人にとっては、愛する神の家族と集まること、また賛美であったり、祈り、みことばを聞くことなどを思い浮かべるでしょう。
では、日曜日の朝の礼拝が終わったら、私たちの礼拝は終わるのでしょうか?いや、私たちの礼拝は終わりません。聖書で言う礼拝とは、その時の一時的な時間ではなく、私たちの生き方そのものだからです。だから、日曜日に教会で礼拝することだけではなく、月曜日に誠実に仕事をすることも礼拝です。人を赦すことも礼拝です。人を愛することも礼拝です。そして、神の御心に従うことも礼拝です。主の前に祈ることも礼拝です。それらすべてが、自分自身を神さまに献げていく礼拝なのです。
ふさわしい礼拝とは、私たちが神さまから祝福を受け取ることだけではなく、私たち自身を神さまに献げていくことが問われています。
そして神さまに喜ばれるささげ物とは、「聖なる」「生きた」ささげ物だと言われます。
この「聖なる」とは、「神さまのために特別に取り分けられたもの」という意味です。だから「聖なるささげ物」とは、単に「罪を犯さないで」ということではなく、「私の人生は、私のものではなく、あなたのものです」と、神さまのために自分を取り分ける生き方です。時間も、仕事も、お金も、賜物も、将来も、「主よ、これはあなたのものです」と差し出していく生き方そのものが献身であり、私たちにふさわしい礼拝です。

また「生きた」ささげ物とは?
旧約のささげ物は、祭壇の上に屠られたいけにえを置きました。しかしパウロは、「生きた供え物」こそふさわしいと言っています。つまり、祭壇の上で死んだだけでなく、生きながら自分を神に献げていく礼拝です。
ですから献身とは、「昔、私はささげました」ではなく、毎日献げ続けるものなのです。毎朝、「主よ、今日も私をあなたのものとして使ってください。」とささげるのです。「神さまのために何かをすること」だけが献身ではありません。もっと深い意味で、自分の人生を神さまに明け渡すこと、それが私たちにとって最高の礼拝、祝福なのだと思います。
ハレルヤ。

牧師 佐藤耕二

日本語訳聖書は「聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会」を使用しています。