「繁栄の目的と境界線 その②」信仰の父アブラハム 学び第6回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.02.17)より。
「創世記」信仰の父アブラハム 学び第6回
聖書箇所:創世記 創世記 13章2節~13節

「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」9節

②繁栄の目的と視点
アブラムは神との契約に目を向けていました。
彼は、自分の権利を主張せず、全権をロトに譲っているのです。
神さまの約束を信じているから、それぞれの場所で主の使命を果たそうと、ロトに提案したのです。
これが信仰の父と言われるアブラムの判断ですね。
自分の利益ではなく、神の国を求めて隣人が祝福されることを喜び、信仰を働かせて判断しました。

ロトはこの世の繁栄に目を向けていました。
ロトは目を上げて、ヨルダンの低地全体を見渡しました。
彼の繁栄の目的は、自分の貪欲でした。
ロトは表面的な部分に目を向け、それを選びとりました。
結局、彼はソドムの近くまで天幕を張り、カナンの地の境界線の外に出てしまいます。
神さまの約束の地の外側を選んだのです。

③境界線(バウンダリー)
一つ目の境界線は、良い交わりを続けていくために神の契約の民の中に境界線を引きます。
これは本当に大人として成熟した判断です。
働きが増え広がるとき、神の家族にも境界線が必要となってきます。
争いが起こらないためです。
まだ教会が幼く、働きが限られているときはみんなで一緒に!でいいかもしれません。
でもその働きが多方面に広がるとき、私たちは成熟した信仰者として、その働きに一定のバウンダリーが必要となってきます。
神さまの契約の祝福が広がるためには、それぞれの役割において主の使命を果たすようになるからです。
そして役割の違うひとつひとつの器官が機能し、一つのからだとなるのです。

二つ目の境界線は、神さまの契約の外に出てしまう境界線です。
繁栄すればするほど、この世の誘惑や罪に対してハッキリとした境界線を引かなくてはなりません。
聖書にはハッキリと「ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。」と言われています。
私はしっかりしているから、罪に近づいても大丈夫だということは決してありません!
人間の弱い理性は、罪に近づけば必ずその罪の影響を受けます。
甘いものを食べてはいけないと言われている人が、それを自分の目の前において、じっと見つめ続けながら誘惑されないように努力するのは、極めて愚かなことですね。
大切なことは、甘いものを近づけさせないことです。

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