一心(ひとごころ)のある人となる ヤコブ1:5~8

信望愛(Okazaki Hope Chapel Monthly Bulletin)2019年5月号より

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブの手紙 1:5)

イエスさまの兄弟ヤコブはこの箇所で、1.知恵の欠けた人 2.疑う人 3.二心のある人、それらの人を同列に指し、「そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。」と指摘します。
厳しい表現にドキッとさせられますね。だからこそ、しっかりとみことばを受け止め、この箇所から学びましょう。

ここでの「知恵の欠けた人」とは、自分の知恵を過信し、神さまの恵みにより頼まない人のことです。自分の知恵やこの世の解決策は一時的で、目に見えてもやがて消えていくものに、私たちの関心を向けさせます。しかし、神さまが与えてくださる知恵は、永遠に変わることのない希望に、私たちの目を向けさせます。そのことにより、あらゆる試練にも打ち勝つ「忍耐」を得ることができるのです。
また「疑う人」とは、この文脈では、“信仰の決断ができずに迷いためらうこと”を表現しています。疑いと信仰が一つになることは決してありません。疑いながら、揺るがない希望を持つことは出来ないし、信頼していないのに信仰を持つこともできません。自分の欠けを認め、神さまに求めて願うとき、神さまは、信仰をも惜しみなく与えてくださいます。信仰は神さまからの賜物です。だからこそ、主を信頼して決断することが出来るのです。

「二心のある人」とは、二人の主人に仕えることを指します。心の中で、神さまと世の富とに、二股をかけている状態です。そのような人は、状況次第で、神さまにも、世の富にも心が向かうのです。信仰生活も前進と後退を繰り返し安定を欠いています。
私たちは、一心を持つ人になりましょう!神さまは、一心をもって求める者に、惜しむことなく「神の知恵」を与えてくれます。何の知恵を持っていないように感じられたとしても、「イエスさまだけが私の主です!」と主をほめたたえて歩む私たちには、すでに最高の知恵が与えられています。ハレルヤ!

牧師 佐藤耕二

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