「境界線」雅歌の学び 第6回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.10.20)より
雅歌の学び 第6回
聖書箇所:雅歌 2章7節

「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」

①愛は目覚めることです。
愛は、あるいは人から強制されてつくり出せるものではありません。
愛には「目ざめ」が必要です。
イエスさまと私たちの関係にも、この愛の目覚めが必要です。
この目覚めがないのに、どれだけ自分の意思で愛そうと努力しても、その愛には限りがあります。
牧師にどれだけ熱く語られても、一時は高まるかもしれませんが、またしぼんでしまいます。
あなたにその愛を目ざめさせるのは、主だけです。
聖霊さましか、あなたのその心を目覚めさせることは出来ません。
それゆえ、「愛が目ざめたいと思うときまでは。」私たちは無理に揺り動かすべきではありません。
ただ、恵みによる神の愛を体験する(知る)とき、義務ではなく、強いられてでもなく、イエスさまに対する愛が満ち溢れてきます。

②境界線。
そのために重要なこと、それが境界線です。
境界線とは、私が何を所有し、何に関して責任を負っているかを明確にします。
それにより私たちは自由になります。
神さまは私たちとの関係において、個人的な境界線、地境を与えておられます。
私たちがすべきことと、神さまにしか出来ないことを区別されます。
それが神さまとの境界線です。
神さまは、私たちがすべき仕事は、私たちの手に任せられます!

・アダムがすべての創られたものに名前を付けたように。創造のみわざは神さまの成されるわざです。

・5000人の給食の中で、弟子たちの手を通してパンと魚を配らせたように。増やすのは神さまの領域です。

これが王である花婿と花嫁の関係です。
花婿と同じビジョンを見て、神さまのなされる計画を見てお互いの役割を果たす。それが教会です。
神さまと私たちの境界線をはっきり理解している教会は平和です。

王様はどんと構えて国を治め、すべての準備を整えてくださいます。
花嫁は王様の権威、支配の中で自由にその役割を果たすのです。
そこには喜びと、いのちがあります。ハレルヤ!

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