「罪」創世記マスタープラン 学び第26回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2021.08.22)より
聖書箇所:創世記 3章5節~7節

「こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。」
創世記 3章7節

罪とは何でしょうか?

犯罪。人を殺すこと。法を犯すこと?それは罪の結果です。罪とは、あなたを愛し、あなたを大切な存在として共に愛し合う関係に造られた神さまから背を向け、離れて行くことです。神さまによって造られた者が、神のようになることです。それを「的外れ」と言います。神さまを差し置いて、自らが最終的な善悪の判断者になろうとするのです。そして聖書は、「すべての人が例外なしに罪人である」と断言します。

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」
ローマ人への手紙 3章23節

ここに使われている「罪」という言葉はギリシャ語の「ハマルティア 」即ち「的はずれ」という意味の言葉です。すべての人は的をはずしているのです。それにより「神の栄光を受けることができない」のです。それは「神から与えられた本来の目的を成就していない、表わしていない」という視点です。人間は「根本的に悪である」ということではありません。聖書は「人間は神の似姿に創造された」と教えている。人間は「ハマルティア」であって「的はずれ」なのです。つまり、神さまの栄光を表わすものとして創造されたのに、その本来の目的を正しく表わさないで曲がったものになっているのです。そもそも罪とは「的」の存在を前提にしています。「的」がなければ 「ハマルティア」も有り得ないのです。神さまの存在がないなら、この世に罪もないのです。

「そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。」
テモテへの手紙 第一 2章14節

まず、「エバはだまされてしまい、あやまちを犯した」とあります。エバはなぜ惑わされたのですか?それは蛇と会話をしてしまったからです。

「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」
創世記 3章6節

サタンは、まず女の思いの中に働きかけ、女の思いを神さまから引き離し、そのような思いをもって物事を見るようにさせました。的をはずしたのです。そのような目で見るとき、その木の実は、いかにも女に好ましかったのです。これがエバの罪です。

ではアダムの罪は何でしょうか?

「アダムはだまされていない」とあります。罪がこの世に入ったのは、女性のせいでしょうか?いや、違います。エバは惑わされて食べたのですが、アダムは分かっていて食べたのです。だまされて的をはずしたのではなく、分かっていて的をはずした確信犯がアダムです。アダムの罪は、「黙っていた。」ということです。蛇が惑わしているのを知りつつ、そばにいて何も言わなかったということです。アダムは神さまから直接「その木から取って食べてはいけない。食べると必ず死ぬ。」と聞いていました。アダムは、エバが惑わされそうになった時、「それは違う!」「神さまはそのような方ではない!」とはっきり「基準・的」を示さなくてはなりませんでした。これがアダムの罪です。

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