「主の足音」創世記マスタープラン 学び第28回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2021.09.05)より
聖書箇所:創世記 3章8節~13節

「そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」
創世記 3章8節
彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」
創世記 3章10節

自分たちが裸であることを知った彼らは、その恥を覆い、神さまから隠れます。そこで「主の足音」を聞くのです。その主の足音は、「主が来られた、主は近くにおられる。」ことを表します。今までならその主の足音を聞くということは、アダムとエバにとっては大きな喜びでした。その足音と共に喜び、その足音と共に住むことが最高の幸せでした。それがエデン、神さまの臨在が満ちる所です。でも「神は霊です」から、そもそも神さまは目には見えません。でも人間の五感を通して、神さまの臨在を感じることができました。なぜなら、人は神に似せて造られた存在だからです。

しかし罪が入ったとき、

神さまが近くにおられる足音を聞くと彼らは「御顔を避け、身を隠してしまう」のです。本当だったら神さまの臨在の中で喜び楽しみ、安息し、裸であっても全く恥ずかしいと思わなかった彼らが、罪が入るともう二人にとって神さまがおられるということが喜びではなくなってしまい、恐れに変わっていきます。安心ではなく不安になってしまったのです。愛の関係が、恐れの関係になってしまった。これが聖書でいう「霊的な死」です。人は善悪の木の実からとって食べたとき、霊的に死んだのです。

そして「御顔を避け、身を隠し」ます。

罪があると、全き信仰によって御前に出ていけません。主の御顔を慕い求めて互いに向き合う関係から、主の御顔を真っ直ぐに見上げることができなくなります。私たちが主の前に大胆に出ることができるのは、この「霊的な死」から解放されたからです。新しい心、「新しいいのち」が与えられたからです。

「心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。」
ヘブル人への手紙 10章22節

神さまの足音が最高の喜びである!そのような者へと変えられたことを感謝します。ハレルヤ!

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