岡崎ホープチャペル発行の週報(2021.09.12)より
聖書箇所:創世記 3章8節~13節
創世記3章9節
アダムは神さまに呼びかけられると、なんとか自分を正当化するために言い逃れをしようとします。それが私たちの罪の性質ですね。なんとか自分は間違っていないと見せたい、そんなに悪くないと思い込みたい、しょうがなかったと言い訳したい。。。そして、その罪を女のせいにしただけではなく、「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が」と言って、その責任を人に押し付けるだけではなく、神さまにまで責任を負わせようとします。それが「的外れ」の罪の性質です。「神さまがいるなら、どうして!」罪ある人間の変わることのない訴えです。
私たちは聖霊さまによってイエスさまの十字架を教えてもらわないと、その「的外れ」の罪が分かりません。
私たちの内に、神さまを自分の願い通りに使おうとする心があることを認めて悔い改めましょう。自分自身の中に絶対的な価値を見出せなくなった者は、なんとか裸を隠そうとして、神さまに訴え、自分を取り繕ろい、着飾り、装います。裸であることを(罪を)知られるてしまうと、自分のことを認めてもらえなくなるから、愛されなくなってしまうから、恐れるのです。そんなアダムに、主は言われます。
創世記3章9節
今日、どうしてもみなさんに知って欲しいテーマはこの呼びかけです。
「あなたはどこにいるのか」。神さまはまず女にではなく、「彼に」アダムに言われます。それはまず男が神さまの前に責任を認めるべき存在だからです。エバは騙されたが、男は騙されずに、分かっていて食べたからです。男は黙っていてはいけませんでした。神のことばを宣言し、止めなければならなかった。だから神さまは「まずアダムよ!あなたは、どこにいるのか」と呼びかけられます。
もちろん神さまは、彼がどこにいるかすべてをご存知の上で呼びかけられます。それは「本来、人がいるべきところがどこか、なぜそこにいるのかを人に気づかせ、神に立ち戻らせよう」としているのです。それは「どこに」と言う居場所のことだけでなく、神さまとの関係の中において、「あなたはどのような状態であるのか」と言う、アダムの心の状態を問われているのです。神さまとの関係において、今自分がどこにいるのかを知ることがとても大切なことなのです。
神さまはいつも失われた人を探しておられます。
神さまは、私たちが罪を犯したからといって途中で見捨てたり、諦めたりするお方ではありません。私たちが隠れていて、盲目で、縛られている状態にあっても、絶えず「あなたはどこにいるのか」と呼びかけてくれます。そして「主よ、ここにおります。」「主よ、私はこのような状態にあります。」「主よ、あわれんでください。助けてください」と言って、主のもとに帰ってくるのを待っておられるます。ハレルヤ!