「ベテスダでのいやし③」七つのしるし 学び第5回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2021.12.05)より
聖書箇所:ヨハネの福音書 5章9節~18節

テーマ「安息日といのちの関係。」

学んできた第三のしるし「ベテスダの癒し」の後に、一つの問題が起こります。この癒しを通して起こる問題の中で、ヨハネが伝えたい核心が出てきます。それは、イエスさまが神の子であること、イエスさまを信じる者にいのちが与えられることです。

パリサイ人の問題点

安息日の律法を守ることが、彼らの最重要課題であった。彼らは、癒された人、その祝福を見ているのではなく、床を運んでいること(罪に定めること)に目を向けた。人のいのちに関心があるのではなく、律法を守ることに関心があったのです。まず最初に確認したいのは、律法自体は良いものです。神さまから与えられた律法は、神さまのみことばです。しかし本質を忘れてしまうと、いのちのみことばがあなたを縛り、人をも縛ることになります。いのちを与えるみことばが、あなたを苦しめることにもなります。

安息日を守ることは良いことです。

断食することは良いことです。祈りに励むことは良いことです。祈祷会や日々教会に来て祈り、賛美することは良いことです。もっと神さまの臨在にとどまりたい。十分の一の献金をささげることは良いことです。みことばを愛するとき、律法は私たちに恵みといのちを与えてくれます。

しかし律法主義に陥ると、それは良くないものとなっていきます。

神さまのみことばの本質を失い、ただ人間の肉の力で、自分の義の方法で成し遂げようとします。本来は、それは神さまとの愛の交わりの中で達成されていきます。しかしサタンは、その純真な思いに巧妙に働いて来て、ほんの少し偽りを混ぜてきます。恵みではなくて、律法主義を持ってきます。サタンは、生き生きとした神さまとのいのちの交わりの関係から、形だけの儀式的な関係へと私たちを欺こうとします。聖霊さまによって喜んで神さまに仕える生き方から、義務として行うように喜びを奪います。恵みによる信仰生活から、自分の努力による信仰生活へと変えていきます。

そもそも安息日は、主の祝福を受けることです。

そして祝福とは、いのちに満ち溢れることです。神さまは、安息日をいのちの祝福に満ちる日として造られました。その日は義務を果たす日ではなく、行いを守る日でもなく、祝福を受け取る日です!

そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です。」
マルコの福音書 2章27~28節

安息日を守るために人が創造されたのではなく、私たちのために神さまが安息日を設けられたのです!ハレルヤ。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする