「五千人の給食のしるし」七つのしるし 学び第6回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2021.12.12)より
聖書箇所:ヨハネの福音書 6章1節~13節

「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
ヨハネの福音書 6章9節

イエスさまはあなたがたで、五千人にもおよぶ人々にパンを与えるようにと弟子たちにチャレンジを与えます。イエスさまは「ご自分では何をしようとしているのか知っておられた。」のです。イエスさまはこのしるしの後、「いのちのパン」について語られました。このしるしは弟子たちの信仰を試すためだけではなく、いずれイエスさまが昇天された後、この働きをするための弟子たちの信仰の訓練でもありました。そしてイエスさまは、今でも「いのちのパン」を与えようとしておられます。そのために、あなたを用いたいと願っておられます。そのイエスさまのパッションを、みことばを通して受け取りましょう

しかし、このチャレンジに対して弟子たちがたどり着いた結論は、

五千人の人々を食べさせるのはどうしたって無理、不可能だというものでした。これが弟子たちの持っている信仰、「見える世界」での判断基準でした。でもイエスさまはいつも、私たちを「見える世界」ではなく、「みことばに聞く世界」へと導いていかれます。イエスさまのみことばに生きる世界です。それが私たちクリスチャンの生きる世界なのです。

確かに、神の国の働きをするときお金がかかります。

働きのための場所を確保して、機材もいるし、必要な経費もかかります。しかし、お金のことばかり考えているようでは何も始まりません。神さまの豊かさを見ること!だからこそできるの神さまの働きがあるのです。

多くの人々がいろいろと言う中で、

他の人とは異なる行動をする一人の少年がいました。少年が自分の持っていた「五つのパンと二匹の魚」をイエスさまの前に差し出すことがなければ、それはただ一人分の弁当、それだけのものでした。少年のお腹を満たすだけのものでした。でも少年はその弁当をイエスさまのもとへ持っていきます。イエスさまがしるしをなさるのには、それだけで十分でした。たとえ、人の目には小さなもの、わずかなもの、それが何の役に立つのかと疑ったとしても、自分に与えられたものを喜んでイエスさまのものとして差し出すとき、イエスさまはそれを祝福し、あなた自身を用いられるのです。

「私にはこれがない、あれがない」ということを問題にするのではなく、

今自分に与えられているものを知り、それを感謝してささげるとき、私たちが考えも思いもよらなかった世界が開かれいくのです。そしてその祝福は、自分だけのいのちを祝福するのではなく、多くの人々の祝福となるのです。ハレルヤ!

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