「生まれつき盲人のいやし」七つのしるし 学び第8回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2022.1.2)より
聖書箇所:ヨハネの福音書 9章1節~7節

ヨハネはここで「生まれつきの盲人」の目が開いたので、「ああ、良かった、良かった」ということを書き記そうとしたのではありません。生まれつき一度も光を見たことがない、見えるようになると考えたこともない人が「見えるようになる」という奇蹟を通して、神さまが指し示そうとしている「神のサイン」を見ていきましょう。

だれが罪を犯したから?1~3節。

弟子たちはこのとき質問します。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。それともその両親ですか。」と。苦しみの現実にぶつかるとき、実に多くの人がこれはなにかの罰ではないか、のろいではないかと因果応報的に考えます。弟子たちも同じでした。ところがイエスの視点は、それとは全く違った答えでした。それは「この人が生まれつき盲人なのは、神のわざ(神さまの栄光が)がこの人に現われるため」だと言うのです。
福音は過去ではなく、未来に視点を向けます。以前の歩みにではなく、これからの生き方に焦点を合わせます。この盲人にとって必要なのは、苦しみの原因を詮索することではなく、盲人の目に光をもたらすことです。だれが罪を犯したか?罪に定めることではなく、救いに導くためのものです。神さまの救いの計画は、アダムが罪を犯したときから変わらないのです。闇の中にある私たちが、いのちの光であるイエスさまと出会って救われることこそ、神さまのみわざです。ハレルヤ!

昼のうちに。4〜5節

そして神さまのわざが現されるために、イエスさまは続けてご自分と弟子たちがしなければならないことを語ります。
「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。」
そのすべき、神さまのわざを行うことのできる時間が限られています。その働きは、昼しかできないのです。「だれが」と問うていた弟子たちに、「だれも」働くことのできない夜が来る!と言うのです。それは、今はまだ「神の安息」に入るチャンスが残されていることを意味しています。
私たちが覚えるべきことは、神さまの永遠の計画の中で、【きょう】神さまとの安息が与えられていることを感謝すると同時に、イエスさまの十字架により永遠の安息に入るチャンスが【きょう】まだ与えられていることを覚えることです。私たちは、昼のうちにすべきことがあるのです。

彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

あなたの目は開かれていますか?
イエスさまはあなたの心の目を開こうと、【きょう】もずっと待っておられます。ハレルヤ!

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