岡崎ホープチャペル発行の週報(2022.2.13)より
詩篇10:1(新改訳3版)
詩篇10篇の中には「Why」という呼びかけが3度も出てきます。この作者は、「主よ、なぜ、どうして」と祈り、訴えています。悩みの時に、苦難の時に、主を一番必要としているときに、神の臨在を感じられないことを嘆いているのです。みなさんにもそのような経験があるでしょうか。
彼の嘆きは何だったのでしょうか?
それは悪しき者たちの高ぶり、悪しき者の道が「いつも栄え」(5節)て、成功しているように見えることでした。「神はいない。」とののしり、勝手気ままに生きていながら、この世で栄えているように見える彼らの存在に対して、神さまが沈黙しているように思えたからです。なぜ、神さまは悪者が神を侮るのを放って置かれるのか。なぜ、神の権威を現さないのか。神さまに対する憤りさえおぼえているのです。
私たちはこのような経験を通して何を学ぶのでしょうか。
イエスさまがある箇所で、このように言われました。
マタイの福音書 7章3節~4節
神さまの存在はあまりにも身近で、日々の歩みの中に神さまの御手は満ち溢れています。しかし私たちは、その偉大さに気づかずに、むしろ神さまをないがしろにしてしまうという可能性があります。目の前にある問題が大きすぎて(問題ばかりクローズアップしてしまって)、神さまの計画を見れていないことが多いかもしれません。私たちは神さまの愛が大き過ぎて、当たり前になってしまって、その愛に気付かないことがあるのではないでしょうか。イエスさまの恵みに溺れてしまって、その十字架の偉大な犠牲をないがしろにしてしまうことはないでしょうか。
「なぜ、神さま」という経験は、私たちの心の中の現実をリアルにあぶり出します。
あなたが創り上げた「神さまだからこうしてくれなきゃダメ」という結論をあぶり出してくれます。そして「なぜ、神さま」という経験は、そのような私たちの神感を崩してくれるチャンスでもあります。詩篇の歌の特徴は、嘆きが嘆きのままでは終わりません。最後には、神さまに対する新たな確信で結ばれていきます。神さまを礼拝する者の嘆きが賛美へと変えられていきます。それが「ワーシッパーの祈り」であり、神さまの恵みに歩む者たちの姿ですね。すべての人々がイエスさまの前にひれ伏す時がきます。その時、涙と喜びの声をもってイエスさまを見上げるのか、唇を噛みしめながら自分の罪を正当化しようとするのか。。。なぜと思うとき、イエスさまの十字架を見上げる者でありましょう。ハレルヤ!