詩篇116篇の黙想「生きることと死ぬこと」

岡崎ホープチャペル発行の週報(2022.4.17)より
聖書箇所:詩篇116篇 1節~19節

この詩篇は、礼拝者である作者が死に直面しているときにささげている詩です。この詩篇116篇は、礼拝者である私たちが「死」をどのように考えるべきか、どのように死に向き合えばよいのかを教えてくれる道しるべです。「死」を意識するということは【どのように残されたいのちを生きるのか】ということにも繋がります。

①私は主を愛する。

死に直面している礼拝者の告白、その第一声が「私は主を愛している」1節。です。神さまに愛されていることを知っている者の告白ですね。私たちは何のために礼拝するのでしょうか?律法を守るために今日、あなたは礼拝に来ましたか?いや違いますよね。私たちは、律法を完成するために礼拝しているのではありません。それは無理です!私たちは律法を完成するためではなく、私たちのために律法を完成された方を愛しているから礼拝をささげるのです。ハレルヤ!

②たましいの死から救われる。

「まことに あなたは 私のたましいを死から 私の目を涙から 私の足をつまずきから救い出してくださいました。」8節。

私たちの人生にも死の恐怖に襲われることがあります。つまずいてしまうことあります。涙する日々を過ごすことがあります。しかし作者は、神さまはその死の鎖から私のたましいを引き上げてくださる。もう私が泣かないでいいように抱いてくださる。私の足がつまずかないように救い出してくださる。いや、救い出してくださったと告白するのです。

③生きることと死ぬこと。

「主の聖徒たちの死は 主の目に尊い。」15節。

この作者は「死」から解放されたと歌っていますが、ここでは聖徒たちの死は、主の目に尊いと告白します。多分、彼の肉体的な死の綱は解かれていないかもしれません。実際にその状況、いのちを狙う者、束縛の状態にあったと思います。でもその中で、本当のいのちの使い方を発見していきます。すでに、たましいは解放されているのです。主をワーシップし、主の御名を呼び求め、自分に与えられた使命のためにいのちを使うことを告白します。「死」を意識するということは、どのように残されたいのちを「生きる」のかということに焦点を合わせます。「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」と。ハレルヤ!

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