注がれる神の目 エズラ記5

信望愛(Okazaki Hope Chapel Monthly Bulletin)2022年7月号より

「しかし、ユダヤ人の長老たちの上には彼らの神の目が注がれていたので、このことがダレイオスに報告されて、さらにこのことについての返事の手紙が来るまで、彼らの工事を中止させることができなかった。」
エズラ記5:5

再び中断されていた神殿再建工事が進むように、神さまが預言者を遣わしてくださいました。(詳しいことはハガイ書に載っています。短いので読んでみてくださいね。) 5章でも順調に工事の再開を迎えたかと思いきや、茶々を入れてくる人たちが現れます。妨害はつき物なのでしょうか。しかしながらそれでも神さまのご計画は変わらずに遂行されていくのが前回でした。
今回は5節「彼らの神の目が注がれていたので」とあります。聖書の中でこれほど分かりやすく「神の目が注がれている」と書かれているのはエズラ記だけなのです。

なぜ目を注いでくださるのでしょうか。人間は興味のあるものに目を向ける習性があります。天の父は彼らに興味を持っていました。特別な関心を抱いているということです。一対一で関係を築き上げることを切望しているのです。

そして、この注がれている目はピンチの時だけでなく、いつもです。神さまに限りはありません。今はたっぷり注がれているから来週はなくなるわけではありません。

私たちも同じなのです。神の目はたまにではなく、いつも注がれています。そして神さまはあなたによそ見をしてほしくないと願っているのです。この目は監視のためにある訳ではありません。見張っているのではなく、見守っているのです。

注がれているのであれば、こんな事には…という経験、みなさんはありますか。エズラ記に載っている彼らは信じて踏み出したものの上手くいかなかったことや、諦めずに進もうとしたけど挫けたなど、苦々しい道を歩んでいます。
神の目が注がれている最中に、彼らのように主のご計画が中断してしまうようなシーズンもあるのです。注がれているはずなのに…と思うのではなく、注がれているからこそこの道を通っているのだと受け取る彼らを、神さまにしかできない方法で前進させてくださいました。
私たちも、神の目が注がれている「からこそ」、主の御手の中を歩んで行きましょう。

伝道師 深谷さおり

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