In Christ ガラテヤ書3

信望愛(Okazaki Hope Chapel Monthly Bulletin)2023年4月号より

「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」
ガラテヤ2:19~21

「今ならタダ!」「もう1個付いてくる!」は、嬉しい言葉ですよね。このように、何もしていないのに特典だけもらえる、という体験をしたことがありますか?
ある時、友人にランチを奢ってもらった際、友人ではなく私のカードの方にポイントをつけてもらいました。あるあるネタだと思われます。店員さんが「お連れさまはお持ちですか?」と聞いてくださったので、申し出ました。ランチだけでなく、代金を払っていないのに願っただけでポイントをいただいたのです。
イエスさまの十字架を軽んじているわけではないのですが、このやりとりが私と友人にとって分かりやすい「恵み=価なしに受け取る」という体験になりました。

みなさんも様々なシチュエーションで、「コレって恵みじゃ~ん」と味わったことがあるのではないでしょうか。

一方で、恵みに気づくことができない時があります。「キリストとともに十字架につけられた」身なのに、自分の力や今までの経験から動いている、つまり自分の義を持って歩んでしまっている時です。十字架に一緒にかかったこと、ともに死を経験し、よみがえったということを横に置いて、義と認められようと努めることが、恵みを分かりづらくさせます。
自分の中に、義と認められる可能性があると思ってしまうのが人の弱さの一つです。その可能性はイエスさましか持っていません。この十字架のみわざを信じたから、キリストの中を歩むことができ、私たち自身の中にキリストが生きてくださるようになったのです。

恵みによって救われているという基礎はとても大切です。この基礎があって次に成長する、イエスさまの似姿に変えられていく過程に導かれます。もはや私が生きているのではないという歩みのスタート地点である「救い」を与えてくださったのは主です。
私が「えっ?ポイントつくんですか?いいんですか~」とカードを出したように、私たちの救いのスタートは「信じてみます、信じたいです」と、ただ決心したところにあったのではないでしょうか。

私たちが神さまのために何かをすることではなく、神さまが私たちに何をしてくださったかの方が大切なのです。

伝道師 深谷さおり

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