「給仕する者」ルカの黙想:学び第48回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.1.21)より
聖書箇所:ルカの福音書 22章 24節〜34節

「食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています」27節

今日の箇所はイエスさまが十字架にかかられる前夜、

最後の過越の食事を弟子たちと共に喜こんでいる最中、たった今、聖餐の恵みを分かち合った直後なのに、弟子たちは「自分たちのうちでだれが一番偉いだろうか。」と、「だれがイエスさまのお気に入りか」などと議論が始まります。私たちはこの議論の話しを聞くと「あ〜やっぱり弟子たちはダメだな〜」と思ってしまいます。でも、イエスさまはどのように感じていたのでしょうか?そもそも弱い弟子たちに声をかけて呼び出したのもイエスさまだったし、その弟子たちを選んだのもイエスさまでした。弟子たちの弱さも足りなさも承知でした。そんな弟子たちでも、彼らは誰よりもイエスさまを愛していたし、イエスさまにずっとついて来ました。「私はイエスさまのお気に入りでなくてもいいかも」とか思わないで、動機は少し不純でも真剣にイエスさまの一番近くにいたいという情熱をもっていたのです。

仕える(給仕する)者でありなさい。

イエスさまもそんな弟子たちに対して、やがて教会の指導者となっていく上での大切な姿勢を伝えます。もし人の上に立つようになるなら「仕える(給仕する)者でありなさい。」ということでした。みんなのために食事をもてなす人です。みんなが喜んで食事を味わう姿を見て喜んで仕える人です。苦手な野菜も調理して食べやすく調理し、みんなの健康を考えて与える人が仕える者です。

この世の価値観では、人を支配し、自分の権威を得ようとして

「人の上に立つこと」を求めますが、神の国にあってはその逆です。給仕する者は、プライド、言い分、権利さえも置いて仕えることを選びます。それはこの世の価値観では損であるかのように思えますが、でも神の国では得となります。

「イエスさまは神の御姿であられるのに、自分を無にして、仕える者の姿をとり、十字架の死にまで。。。」

まさに仕える方でしたが、それゆえ「神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」とあります。イエスさまのために「仕える者」たちは、イエスさまと同じように、やがてキリストの名のゆえに高くされることが保障されています。

最後の最後でペテロが「つまずいてしまう」(仕えることができない)ことをイエスさまは見越しておられました。ですから、イエスさまはペテロの信仰がなくならないように、あなたのためにすでに祈ったと言うのです。イエスさまが祈ってくださるから「信仰はなくならない」のです。私の信仰なら無くなる可能性もありますが、イエスさまから与えられる信仰は絶対になくならないのです。あなたが立ち直ったら、兄弟たちを「力づけて」やりなさい!これがイエスさまの言われる「給仕する者の働き」、恵みを知った者の姿です。恵みを受けた者として、愛する兄弟姉妹を励ます者でありましょう。お互いに失敗もありますが、美味しいみことばを調理して分かち合いつつ、仕える者でありましょう。ハレルヤ!

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