「神の敵となる」ヨシュア記の学び 第11回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.6.16)より
聖書箇所:ヨシュア記 7章 1節〜9節

カナンの地の戦いで、最初で最後の敗北

難攻不落の要塞都市エリコをまず勝ち取ったヨシュアたちは、続いてベテルの東に位置する町アイとの戦いに向かいます。アイはエリコからベテルに行く途中にある町で、戦略的にも要所を占める町でした。今日の箇所では、そのアイでの戦いについて記す前に、アカンがエリコの聖絶のもののいくらかを隠し取って神さまの前に罪を犯していたことを言及します。実際に、罪を犯したのはアカンですが、本文では「しかし、イスラエルの子らは聖絶の物のことで主の信頼を裏切った。」と語られます。ひとりの人の罪を共同体全体に問われるのが “信仰の共同体”、神の民の姿です。

またそれだけではなく、アイの町を偵察に行った者たちは「アイは小さい町なので、2、3千人ぐらいの兵士を送り込めば勝ち取れる」と報告します。しかし彼らの提案には問題点がありました。そもそもアイは彼らの報告通り、少人数の軍隊で打てるほど小さくないということでした。彼らの報告と提案は、イスラエルの民が難攻不落のエリコの戦いで勝利したことで高慢になり、エリコでの勝利がまるで自分たちの力や戦力で勝ったかのような錯覚を持っていました。またイスラエルの高慢は、ヨシュアがアイに攻め上る前に、神さまの助けを全く求めなかったことからも分かります。アイにおける敗北の背景にはアカンの罪とともに、イスラエルの民全体の高慢さが見え隠れします。

今日の学びたいポイントは敗北の理由です。

その敗北の理由は「主の怒りがイスラエルの子らに向かって燃え上がった。」からです。簡単に言うと、アカンの罪とイスラエルの高慢のゆえに「神さまがイスラエルの敵となられた」ということです。それは、イスラエルがそのことよって神の敵となったということです。エリコの戦いの前にヨシュアが「主の軍の将」に出会い、尋ねました。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」と。しかし「主の軍の将」は言われました。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」と。それは、わたしは敵でも味方でもない、わたしがこの戦いの勝利の将軍であると言うことです。「わたしの側に付くものがわたしの味方であり、勝利をするのだ。」と言うことです。主を恐れる者が、主の側につく者であり、主に謙遜な者が、主の祝福を受けるのです。

全能なる神さまに敵対して生きる

アカンは主を恐れず、みことばに逆らって聖絶のものに手を出しました。それは神さまに逆らって神の敵になるということです。全能なる神さまに敵対して生きる。良く考えると、とても怖いことです。私たちもいつも主を恐れる者でありましょう!それが知恵の始まりであり、ほんとうの知恵は主を恐れることから始まります。ハレルヤ!

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