「神さまがディレクター」ヨシュア記の学び 第12回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.6.23)より
聖書箇所:ヨシュア記 8章 1節〜9節

神さまの約束と宣言

前回は、イスラエルがアイとの戦いに敗北した過程を通して、神さまに敵対することの恐ろしさを学びました。イスラエルの子らが聖絶のもののことで不信の罪を犯し、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がったのです。失意の中でヨシュアが主に祈ると、アカンの罪が明らかにされ、彼を聖絶するようにと命じられました。アカンの罪によるイスラエルの汚れが取り除かれた後、ヨシュアは再びアイとの戦いに備えます。そしてその戦いは神さまの約束と宣言から始まります。

主はヨシュアに言われた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民をすべて率い、立ってアイに攻め上れ。見よ、わたしはアイの王と、その民、その町、その地をあなたの手に与えた。」1節

この宣言は、イスラエルへの神さまの怒りがやんだことを示しています。

神さまはヨシュアに対して「戦う民すべてを率い」、すなわち総力戦で攻め上れと言います。わずかな人数だから、小さな集会だから、小さい働きだからといって力を抜くことは神さまの目には良しとはされません。逆に、大きな舞台だから、大勢の会衆の前だからといって、いつも以上に霊的であろうと演じることは偽善です。舞台の上でも、舞台の下でも、いつものあなたの心からのワーシップを捧げることが一番肝心なのです。

神さまの義が現されるため

ヨシュアに勝利の約束を与えてくださった神さまは、アイの町を勝ち取るための戦い方を命令されます。ひとつ目は聖絶です。なぜ兵士だけでなく、女性も、子どもも、年よりも、殺されなければいけないのか。。。なかなか受け入れがたいように思えます。しかしこのことは、ただ私たちの感情や視点からではなく、神さまの義が現されるためでした。もちろん私たちもみな、神さまの前に罪深い者であり、裁かれる者でしたが、イエス・キリストの十字架の代価によってその刑罰を取り除かれたのです。それが恵みであり、神の義でもあります。

牧師は信徒に勝ってはいけない

また、アイとの戦いで神さまが示した戦い方は真っ向勝負ではなく、別の伏兵を置き、ヨシュアたちは一歩下がり負けたふりをするという戦術でした。神さまが共にいるからもっと正面突破でも!と思われますが、アイの戦いではこうすることが神さまのみこころでした。最近、長老さんと仕事をしていて、いろんな信仰の話を聞かせてくれます。ある先生が言っていたことがある。「牧師は、信徒に勝ってはいけない。」って。牧師がいつも信徒に勝ってはダメだ。あえて負けて、信徒の意見を聞くときもある。後になって、信徒が気付いて神さまの栄光を知ることがあるんだって。神さまを誇っているなら、自分の恥は大したことがない!負けるが勝ちもあるのです。ハレルヤ。

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