「ギブオンの民・祭壇に仕える者へと」ヨシュア記の学び 第13回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.6.30)より
聖書箇所:ヨシュア記 9章 1節〜27節

アイとの戦いに完全勝利をした後、

ヨシュアはエバル山にて主のための祭壇を築きました(8章30節)。そしてイスラエルのすべての民を集めて、モーセが以前命じたように律法のことばを読み上げて、イスラエルを祝福します。さて9章に入ると、これまでの戦いと違うシーズンに入ってきます。その戦いは、ヨルダン川西側のカナンの王たちの連合軍との戦いです。カナンの王たちは皆「ともに集まり、一つとなって」イスラエルと、つまりまことの神さまに対抗して戦おうとします。それは、常に神さまに敵対する人類の姿が映し出されているようでもあります。この世はいつも神さまに敵対しようとします。

「なぜ 国々は騒ぎ立ち もろもろの国民は空しいことを企むのか。なぜ 地の王たちは立ち構え 君主たちは相ともに集まるのか。主と 主に油注がれた者に対して。」
詩篇 2篇1~2節

神さまの祝福を受けて喜ぶ者たちもいれば

主とその祝福を受けた者たちに敵対し、力を合わせて攻撃してくる者たちがいます。皮肉なことに、この世は神さまに反逆することには一つになるのです。しかしギブオンの住民たちは、ヨシュアと戦おうとするカナンの王たちとは違って、イスラエルと盟約を結んで生きる道を模索します。彼らは策略をめぐらし、変装して、なんとかイスラエルの保護を受けようと知恵深く助けを求めました。そこでヨシュアと族長たちは、主に伺いを立てることなく性急に盟約を結んでしまいました。イスラエルの民はその後、彼らがギブオンの住民であることを知ります。それは、彼らも聖絶されるべき人々だったということです。

しかしイスラエルの族長たちは、自分たちが主にかけて誓ったのでギブオンの人々を打つことはしませんでした。だまされて結んだ契約ですが、カナンの地に対する神さまの主権を認める彼らの申し出を受け入れたことは、究極的には神さまの御心であったようにも思えます。そもそもモーセが約束の地に入る前にイスラエルの民に語った定めには、カナンの地を攻略する前に、まず降伏を勧めなければなりませんでした(申命記20章10~12節)。

私たちの信じている神さまは、契約の神です。

もし契約の神さまが真実でなかったら、イスラエルの民はとっくに荒野で滅びていたはずです。しかし、そうではなかった。いつも神さまはイスラエルをあわれんでくださった。ヨシュアは、そのことを身をもって経験してきました。そしてその契約は、すべての人々にも開かれています。神さまの願いは、すべての人が救われることです。ギブオンの人々は、のろいというよりも、主のあをれみと恵みを与えられました。のちに、ギブオンの町はレビ人に与えられます。そして、そのギブオンにモーセの幕屋が設置されます。ソロモンが一千頭の全焼のいけにえを捧げたのもギブオンの祭壇でした。ギブオンの人々は、いつも一番近くで神さまに仕える者とされていくのです。ハレルヤ!

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