「さまよわない生き方がある」ヨシュア記の学び 第18回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.8.4)より
聖書箇所:ヨシュア記 14章 6節〜15節

カレブはすぐれた信仰者なのに

ヨシュアのようにその働きが聖書に登場してくるわけではありません。しかし、その信仰は聖書の登場人物の中でも秀でています。カレブがどんな人物かと黙想するときに、彼は肝心な言うべき時に、明確に真理を語ることができる優れた信仰を持っていました。そして、その反対に沈黙を守るべき時も知っていた信仰者でした。カレブが語る時は、いつも神さまの側に立った信仰の告白ような発言でした(民数記13:30、同14:6~9、ヨシュア記14:6~12)。そしてその告白はどれだけ時が経っても変わりません。カレブがいつも、このように胸のすくような信仰の告白ができたのは、彼が沈黙している間も、いつも神さまの側に立つ信仰生活をしていたからでしょう。

「ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者とは違った霊(心)を持ち、わたしに従い通したので、わたしは、彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。」
民数記 14章24節

さまよわなかったカレブ

ほかの人とは違った霊=心を持っていたとは、ずばり信仰ですね。教会に来ている間だけ信仰的に熱心な発言や告白をしても、普段の生活の場、家庭や職場で信仰を持って立っていなければ、それは信仰を持っていない人とあまり変わりません。カレブは、自分の使命に向かって真剣に生き続けており、また神さまの約束の真実によって生かされ続けるという信仰を持っていました。その結果、カレブの信仰は、イスラエルの民が荒野をさまよって、その不信仰と不服従のゆえにつまずいても、カレブは少しも揺るがされなかったのです。ほかの人たちと同じようにシナイの荒野を歩んでいても、カレブは「さまよっては」いなかったのです。「さまよう」とは、自分の行き着くべき目的地を見失なってる状態です。自分の信念(自分の信仰)なのか、神さまによる信仰なのかわからなくなることもあります。「信仰」とは、自分の「念」を信じるのではなく、仰ぐ方を信じるのです。仰ぐ方を信頼しているのです。言い換えるなら、仰ぐ方を中心として生きて行くことが、神さまを信頼してついて行くことです。

さまよわない生き方のポイント

カレブは若き日に心に宿した「志」、神さまから与えられた「幻」を忘れなかった。だからカレブにとっては、そのヘブロンの地の勝利を収めない限り、約束のカナンの地に入ってもその心は変わりませんでした。大きくて屈強なアナク人を打ち破る。カレブが四十五年間、忍耐してきた信仰をついに自分の目で見ることとなったのです。それぞれが、神さまからの使命に忠実に、神さまを愛する者でありましょう。やるべきことが分かっている!行き着くゴールを知っている!そこに、さまよわない生き方のポイントがあります。そこには、いろいろな問題が起こります。つまずく人も出てきます。捕囚を経験します。でも共同体は、主によって建て上げられていきます。主がその心を必ず成し遂げるからです!私たちは、それを見上げていく者たちです!ハレルヤ。

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