「ヨシュアの告別説教②見続ける。」ヨシュア記の学び 第20回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.8.18)より
聖書箇所:ヨシュア記 23章 1節〜11節

「これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。ただ今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがりなさい。」
ヨシュア記 23章7~8節

死を間近に迎えたヨシュアが懸念していたこと

ヨシュアが心配していたことは何だったのでしょうか?
それは安住の中で、残されていくイスラエルの民が、異邦の民と深く交わってしまうのではないか、いや、もうその交わりは始まっているのではないかという懸念です。

「異邦の民と交わらないように」とは、単に接触するということではありません。「交わり」というのは、「一つになる」、「共有する」という意味です。もし神さまが、この世は汚れているから、この世に接触してはならないと命じられているなら、私たちはこの世界から出て行かなければならないでしょう。でも神さまは、そのようなことを私たちに命じられているのではありません。その罪と一つになるな!と言うのです。だから神さまは「あなたがたの主にすがりなさい。」と言われます。「すがる」という動詞は(ダーバク)、「結びつく、縁を結ぶ、くっついて離れない、そばにいる、そばから離れない」という意味です。このことばが聖書で最初に使われている箇所は下記の箇所です。

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
創世記 2章24節

主にすがるとは、神さまとしっかりと「結び合う」「一体となる」ことが求められているのです。ここにも花嫁なる教会の奥義が隠されていますね。私たちのアイディンティーは、この世の中で生きる者ですが、もう「この世の者」ではなく、イエスさまのものとされた者たちのことです。

イエスさまのものとされた者

それはつまり、イエスさまが共に生きておられる生き方です。

「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」
ガラテヤ人への手紙 2章19~20節

イエスさまと一体とされた私たちは、なんと幸いな者でしょう!ハレルヤ。

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