「ヨシュアの告別説教③自分自身に十分気をつけて。」ヨシュア記の学び 第21回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.8.25)より
聖書箇所:ヨシュア記 23章 1節〜11節

「だからあなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。」
ヨシュア記 23章11節

自分自身に十分気をつけて、神さまを愛するとは?

私たちはイエスさまを愛していると思っていても、いつの間にか違うものを第一に愛している場合があります。だから「あなたがたは自分自身に十分に気をつけていなさい」とヨシュアは語っているのです。

ここで「自分自身」と訳されていることばは、原語では「ネフェシュ」と言います。「ネフェシュ」とは、神さまによって創造された「いのち」を意味します。人は、土のちりで形造られ、その鼻にいのちの息を吹きこまれたことによって「生きる者となった」とありますが、その「生きる者」とは「すべての必要を神さまから与えられることによって生きる存在とされた」と言う意味です。人の心にある衝動、あるいは心の飢え渇きは、神さまによって満たされるとき、それは健全であり、真の意味で「いのち」をもった存在となるのです。

ところが私たちは、この心の飢え渇きを違うもので満たそうとするので、その魂は健全でなくなり、主を愛することができなくなります。「ネフェシュ」は常に飢え渇きを満たすためにうごめき、じっとしておれない実体です。そしてこのネフェシュが満足すると少しの間安心するのですが、この世の物で満たそうとする時、また「思い煩い」が生じるのです。私の思い、私の必要、私の言い分、私の私の。。。私たちは思い煩うことが得意な、思い煩いのスペシャリストです。神さまは、私たちの「たましい」がそのような本質をもっていることを十分ご存じの上で、その必要を満たしたいと願っておられます。

神さまの愛で満たされているなら、人から愚かに思われても大丈夫です。

先日、ひとりの若者と話をしました。自分の人生に希望が持てないのです。何をしていいのか分からないのです。彼はクリスチャンです。でもね、わからないと言いながら、今決断しないといけないことがあるんです。分からないじゃなくて、避けてるんです。彼はわかっているんです。何が良いのか、悪いか。。。だから彼に言いました。神さまは「あなたのたましいが何に飢え渇わいているのか十分気をつけて、主を愛しなさい」と。。。私たちが神さまの愛で満たされているなら、たとえ人から見て愚かに思えても大丈夫です。神さまの愛にとどまっているなら、どのような決断をしても大丈夫です。私たちは、どのように主を愛しているか?自分のたましいによく注意して、吟味することが大切です。私たちは、自分が出会ったイエスさま以上に、イエスさまを愛することはできません。自分が体験したイエスさま以上に、その愛を体験することはできません。私たちは、自分が知った以上のイエスさまに似ることもできません。だから、もっとイエスさまの十字架を求めましょう!そこに全ての備えがあります!ハレルヤ。

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