「高低差のない心」箴言の黙想 学び第3回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.9.22)より
聖書箇所:箴言 3章 32節〜34節

 主は、曲がった者を忌み嫌い、直ぐな人と親しくされるからだ。
 悪しき者の家には、主ののろいがある。正しい人の住まいは、主が祝福される。
 嘲る者を主は嘲り、へりくだった者には恵みを与えられる。

箴言では「主はあなたの道をまっすぐにされる」との約束がよく出てきます。

ここでも主は「曲がった者を忌み嫌う」とあります。そして「直ぐな人」を喜ばれます。この「まっすぐ」“ヤーシャル”ということばは、「起伏のない」「平らな」という意味があります。要は、高低差のない状態のことです。主を信頼する者に与えられる祝福は、たとえどのような高低差のある状況に置かれたとしても、神さまとの親しい交わりにより平安でいられるということです。この平安こそ、高低差のない「まっすぐにされた」心です。

「直ぐな心」は、神さまの恵みを素直に受け取ります。

恵みを素直に受け取るためには、へりくだらなければなりません。もともと「恵み」とは、受けるに値しない者に与えられる神さまの祝福です。だから、神さまの恵みを素直に受け取れないのは、高慢でもあるのです。自分はまだ恵みなしでも大丈夫だと拒んでいる状態ですね。高慢と似ている性質で、“自己卑下”というものがあります。どちらも、神さまの恵みを認めていない状態にあるのです。それは神さまに対しても、人に対しても出てきます。「主よ、あわれんでください!」と素直に言える心こそ、主は喜ばれます。

神さまが与えてくれる平安はこの世のものとは違うと聖書にあります。

その平安は、高低差がない恵みを知っている心です。たまに上がったり下がったりすることを開き直って“しょうがない”とあきらめる人もいます。また、上がったり下がったりするのが嫌で感情を押し殺す人もいます。どちらも聖書的ではありませんね。聖書的には、へりくだった心の中に恵みが十分注がれ、起伏のないまっすぐな心へと整えられていくと言うのです。そのような心に変えられたいですね。

私たちは神さまの前に出る時、本当の自分の姿を見ます。

神さまの栄光の前に出る時、自分の罪深さと、自分の弱さを悟ります。でも、そこには主の恵みがあります。主を呼び求める者に、主は誉れを与えてくださいます。へりくだるとは、神に出会うことです。神に出会った者は、ただ主を誇ります!自分を誇ると、ねたみや怒り、人をさばきやすくなります。その時は、主の前に出ましょう!主を恐れることが、すべての知恵のはじめです。ハレルヤ!

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