「瞳・指輪・妹のように」箴言の黙想 学び第6回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.10.13)より
聖書箇所:箴言 7章 1節〜5節

「私の命令を守って生きよ。私の教えを、自分の瞳のように守れ。
 それを自分の指に結び、心の板に書き記せ。
 知恵に向かって「あなたは妹だ」と言い、英知に向かって「身内」と呼べ。」
 箴言 7章2~4節

私たちが日々、何を身近にするのか、何を大切にしているのかによって

私たちがどのような人生を送るかが決まってきます。つまり何を基準にするかによって、私たちの行動が決まってくるのです。お金なのか、人からの評価なのか、家族なのか、ビジョン(夢)なのか。。。これらは悪いものではありませんが、それが失われたら生きる目的がなくなってしまいます。神さまを信じて生きるということは、みことばを自分の基準として生きる、みことばを身近に置くことでもあります。

2節「私の教えを、自分の瞳のように守れ」とあります。

何かが自分の瞳に向かって飛んできたら(ボールとか蜂とか)、私たちは条件反射的に目を閉じます。そして瞳を守るためにからだ全体を使ってよけます。聖書で神さまが「瞳」について語られるとき、それは最も大切な存在として語られます。日本の慣用句でも、愛する子や孫のことを「目の中に入れても痛くない」ということばがあります。それは自分の子どもや孫がとても大切で、愛おしくてたまらないことを意味しています。同じように箴言は、自分の最も大切なものとして神さまのみことばを守りなさいと言うのです。

3節「自分の指に結び」とあります。

指輪は、聖書的に子どもとしての特権でもあり、夫婦で言うならお互いの所有権を表している印でもあります。箴言の著者は、いつも指輪を指にはめているように、肌身離さず神さまのみことばをあなたの最も身近に置きなさいと教えます。「心の板に刻む」ということも同じです。いのちの泉が湧く心の板にみことばを刻みなさいと言われます。みことばから、私たちの霊的いのちが生まれてくるからです。

4節「妹のように、身内のように」ともあります。

繰り返しになりますが、最も親しい存在、当然、守るべき存在としてみことばを守りなさいと言うのです。ネパールのバディ族の話で、妹を守るためにお姉さんが自分のからだを犠牲にしていく話を聞きました。妹はそれほどまでに大切な存在だからです。同じように、私たちもみことばを愛し、いつもそばに置いて、手放してはいけないと知恵者は言うのです。何を身近にするのか、何を基準に置くのかによって、私たちの日々の行動が決まってくるのです。みことばを愛する者でありましょう。ハレルヤ!

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