信望愛(Okazaki Hope Chapel Monthly Bulletin)2024年5月号より
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」伝道者の書 3:11
私たちは永遠の存在である神さまに似せて創造されました。そして神さまも、永遠に私たちと共に過ごすことを望んでおられます。この地上でも神さまの臨在を体験して生きる者ですが、永遠の視点を持って日々の営みを歩めるように、神さまは私たちにその心をくださいました。
私たちは誰でも、いつの日か自分の心臓の鼓動が停止することを知っています。それが私たちの理解する「死」です。それは、肉体とこの世の地上における時間が終わったことを意味しますが、私たちの「霊」は、それでおしまいなのではありません。私たちの地上における「霊」の一時的な住まいである肉体は終わりますが、永遠に神さまと共に生きる朽ちることのない栄光のからだはこれから与えられます。
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」
第2コリント 5:1~10
地上には多くの選択肢がありますが、永遠にはたった二つの選択肢しか用意されていません。それは永遠の天国か、ゲヘナかです。神さまの創造のみわざは、初めから変わることはありません。
きょう、与えられている地上でのいのちを喜び、同時に永遠のいのちへの感謝を持って生きることができる! これが永遠の視点で生きるクリスチャンの恵みです。
ハレルヤ!
牧師 佐藤耕二
日本語訳聖書は「聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会」を使用しています。