信望愛(Okazaki Hope Chapel Monthly Bulletin)2025年2月号より
「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」
詩篇 22篇1~3節
私たちの信仰生活の歩みの中で、神さまが共におられないように感じるシーズンがあります。それは、自分から世の楽しみに惹かれて神さまから離れていくのとは違い、主を慕い求めて歩んでいるのに神さまが自分から離れ去っていくような、神さまが御顔(臨在)を隠されているような、沈黙しておられるように感じるときです。「どうして…いつまで…あなたは僕を見捨てられたのですか…」と涙する時、どのように神さまの臨在に焦点を合わせることができるでしょうか?
聖書に出てくる信仰の大先輩たちもみな、そのような経験を通りました。アブラハムも、ヨブも、ダビデも、エレミヤも、そしてハンナも、ナオミも、シュラムの女も、孤独を体験しました。
「私は、夜、床についても、私の愛している人を捜していました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。」雅歌 3 : 1
でもそれは「あなたのせい」ではないのです。時に神さまは、子どもが成長するようにと愛のある訓練のシーズンを経験することを良しとされます。その時は苦しいですが、そのことにより私たちがただ主を呼び求めるようになるためです。イエスさまご自身も同じでした。裸にされ、ののしられ、バカにされ、人相が変わってしまうほどに叩かれ、鞭打たれ、軽蔑され、唾をかけられ、十字架を背負わされてカルバリの丘へと歩んでいきます。十字架につけられ、いばらの冠をかぶせられ、苦しみ悶えながら神さまに叫ばれました。「わが神、わが神。どうして。私をお見捨てになったのですか。」
私たちに出来ることは、イエスさまの十字架を見上げることだけです。イエスさまは、私のために十字架上で完全に神さまから断絶されました。それは何故ですか?それは、私の罪のためです。。。私たちがイエスさまの苦しみを経験する時、十字架の愛を少しだけ知る者と変えられます。それが究極的には、私たちにとっての最高の人生であり、神さまの恵みなのかもしれません。そこに心からの主への賛美が生まれるのでしょう。主の臨在を体験するのです。
ハレルヤ!
牧師 佐藤耕二
日本語訳聖書は「聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会」を使用しています。