岡崎ホープチャペル発行の週報(2025.2.9)より
聖書箇所:列王記 第一 18章 16~29節
神さまは、雨を降らせるとエリヤに語ると同時に
アハブに会いに行くように命じられました。エリヤは、自分を殺そうとしているアハブの前にいのちをかけて出ていきます。オバデヤのことを思い、一刻も早く出て行ったのでしょう。アハブは、イスラエルの受けている苦痛と災いはすべてエリヤのせいだと思っていました。イスラエルを神さまの祝福から遠ざけているのが自分の過ちだと認めようとしません。そこで彼らに、イスラエルを煩わすものが誰かを明らかにする必要がありました。まことの神さまの前で罪を犯し、悔い改めようとしないイスラエルの民に霊的な戦いを挑みます。
私たちも日常の生活の中で
自分たちを幸せにするのはこの世の富なのか、快楽なのか?それとも神さまのカバーリングに留まることなのかを吟味し、どちらかを選択しなければいけません。
サタンは神さまの恵みと祝福によって感謝して生きる幸せから、一時的なこの世の富や快楽によって幸せを得させようと、私たちを誘惑し、縛ってきます。私たちが、それらの奴隷になるのではなく、私たちはそれらを治めて管理するように任せられていることを知る必要があります。私たちに起こる霊的戦いは、何か抽象的な空想の中にある概念ではなく、毎日の日常の中にあり、目に見える事柄の裏側にある本質に対する戦いであります。エリヤはそのことを人々に教えるために戦っています。
神と富とに仕えることはできません
バアルの預言者たちが朝から昼、夕方まで大声で祈り、自分を傷つけても、何も起こらなかった。何の答えもなく、何の解決もなかった。そのことを通して私たちも、偽りに満ちたこの世の偶像を礼拝する空しさを知るのです。神と富とに仕えることはできませんと告白し、この世のものはこの世に返し、神さまのものは、神さまに返しましょう!私たちは、それらを管理する役目があるのです。ハレルヤ!