「外に出て、主の前に立て」カバーリングの学び 第9回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2025.3.9)より
聖書箇所:列王記 第一 19章 8~18節

主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。」
列王記 第一 19章11節

エリヤはカルメル山での勝利の後、

ユダのベエル・シェバまで逃げて行き、そこで疲れ果てて自分の死を願います。エリヤは自分の「いのちを救うため」に逃げてきたのに、どうして死を願っているのでしょうか?「私のいのちを取ってください」とは、どのような思いから祈っているのでしょうか。それは私が思うには、自分の使命に対する責任を解除してくださいと主に求める願いであるように感じます。もう十分やったと。。。

エリヤは主からの励まし、慰め、食物、養いを受けてもう一度立ち上がります。そこから40日40夜歩いて神の山ホレブに着きます。そこでやっと神さまの声を聞きます。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と。エリヤは答えます。「ただ私だけが残りました。。。」そうです、一生懸命やってきました。やるべきことはやりました。でも何も変わらないんです。ただ私だけか残されましたと。そこで主は言われた。11節「外に出て、山の上で主の前に立ちなさい。」

エリヤは主の前に立ちます。そこで、圧倒的な主の臨在を体験します。

大風が、岩々が、嵐が、地震が、火が、、、でも主はその中でご自身を現されることはありませんでした。でもそのあとに、かすかな細い声でもう一度同じ質問をします。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と。この激しい主の臨在を体験したあとなので、エリヤも「わかりました神さま、もうちょっと頑張ってみます。。。」と答えても良さそうなのに、エリヤも全く変わらない「ただ私だけが残りました。。。」と同じ返答をくり返します。エリヤはいつも主の前に出ていた人でした。いつも主を恐れていた者でした。だから激しい主の臨在の後も、「もう、やるべきことはやりました。」と言っているのです。

でも神さまは、そんなエリヤに新しい使命を与えられます。

それは再び荒野へ行き、アラムの王とイスラエルの王に油を注ぐことであり、自分の後継者としてエリシャに油を注ぐことでした。エリヤはもうやり切ったと思っていました。でも神さまにとっては、まだやることがある!と言うのです。神さまの計画は私たちの思う以上に大きく、私たちはそのひとつの階段をやっと過ぎただけであることを新たに思い知らされます。エリヤは新しい使命が与えられると、また立ち上がりその使命のために自分のいのちを使います。いのちを取ってくださいと願ったエリヤが、新しい使命を与えられたのです。私たちにも神さまの使命が与えられています。さぁ、外に出て、主の前に立ちましょう!ハレルヤ

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