岡崎ホープチャペル発行の週報(2025.3.16)より
聖書箇所:列王記 第一 20章 1~25節
預言者エリヤのストーリーの間に、
アラムとイスラエルの戦いが挿入句的に描かれていきます。優柔不断で、イスラエルに偶像礼拝を持ち込んだアハブ王。そんなアハブの前に、アラムの王が大軍を率いて首都サマリヤを包囲します。アラムの王は、イスラエルの人々の家族や子どもたちまでも脅かす高圧的な態度をとってきました。長老たちはその条件をはねのけ、承諾しないようにアハブに忠告し、アハブも彼らの言うことに力を得て立ち上がります。
一方ベン・ハダテは、
自分の圧倒的な軍事力と権力により頼み、簡単にサマリヤを落とせると高ぶっていました。実際にアラムの王たちは、戦いの場所でありながら自分たちの本陣にある幕屋で酒を飲んで戯れていました。それほど強力な力の差を誇っていました。しかし数日前までビビっていたアハブが、アラムの使いの者に『武装しようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない。』」と伝えます。その意味は「戦ってみないと勝敗はわからない!」という戦う意志を伝えたものでした。13節に「ちょうどそのころ」と、その決断をした時、ひとりの預言者が遣わされ、イスラエルの勝利を宣言します。エリヤ以外にも預言者が活動していたことがわかります。神さまはアラムの攻撃を待つのではなく、先にアハブから攻撃をしかけなければならないと言われます。一方でアラムの王は勝敗はすでに決していると考え、どれだけ多くの捕虜を確保できるかだけを考えていました。捕虜は奴隷として売れるからです。
さて、若い者たちが率いるイスラエルの軍隊は、
神さまの指示通り出ていき激しくアラム軍を撃ちます。小さい部隊でしたがアラム軍から大勝利を得ます。この戦いは明らかにアハブのための戦いではありませんでした。神さまは罪深いアハブを通して、傲慢なベン・ハダテに対するさばきを下されたのです。アハブは卑劣な王でしたが、神さまはご自身の愛する民イスラエルにあわれみを施すため、この勝利を与えられました。
神さまはすべての人々に
ご自身が救い主であることを知らせたいと願われています。アハブ自身にも立ち返る機会を与えたいし、すべての人が救われることを願っておられます。神さまの心を知るとき、私たちは勇気を得ます。神さまの破格のあわれみの中で、日々みことばと祈りによって神さまの約束を勝ち取っていく者でありましょう。主よ、勇気を与えてください!