岡崎ホープチャペル発行の週報(2025.3.23)より
聖書箇所:列王記 第一 20章 26~43節
神さまはイスラエルの王アハブに
奇跡的に2度もアラム軍に対して勝利を与えられましたが、アハブはそのベン・ハダテを自分の兄弟と呼んで政治的な目的のために彼と契約を結んでべん・ハダテを解放してしまいます。この戦いの勝利は、イスラエルの神に敵対するベン・ハダテをさばくために神さまが与えられたものなのに、アハブは神さまのあわれみを自分の手柄と勘違いし高ぶります。そのことにより、神の預言者がアハブに対してさばきのメッセージを宣告しに行きます。
「どうしたら良いのでしょうか?」
神の預言者は、他の預言者のともがらに自分を打って傷を負わせるようにし、まるで戦場で目を負傷した兵士のように包帯で目を覆い、アハブの前に出ていきます。彼はアハブに伝えます。「自分は兵士だが、ひとりの捕虜を見張るように命じられていたのに逃してしまいました。その責任を取るように迫られ、その代価を払うようにと言われていますが、どうしたら良いのでしょうか?」とアハブに尋ねます。するとアハブは、「約束した通りに守らなければならない」と答えます。こうして、ベン・ハダテを逃したことを、アハブは自身の言葉で刈り取ることになります。ここでのポイントは、銀1タラントは一般的な奴隷の代価よりも数十倍高い値段で、普通の人には到底払える金額ではありませんでした。ですから捕虜を逃した人が代わりに奴隷となり、自分の身をもって償うと言うことです。つまり、ベン・ハダテのいのちの代わりに、アハブ自身のいのちを渡さなければならないと言うことです。
アハブは預言者のさばきのことばを聞いてすぐ心から自分の過ちを認め
悔い改めるべきだったのに、そうはせずむしろ怒ったのです。自分がしたことは正しい、仕方がなかったことだと。。。私たちにも、このような霊的戦いがいつもあります。自分の過ちを指摘されて心地よいことはありませんが、その罪を悟れずに、そのまま罪を犯し続けることのないようにしましょう。イエスさまが私たちの罪を負い、罪の代価を払ってくださったことに、いつも目を向けましょう。自分の罪の性質に向き合うことは救われた私たちにとって、とても大切なことです。悔い改めの実を結ぶことは、十字架の恵みを受け取る最大の祝福です!絶えず霊的なアハブを取り除いて、いつも神さまの前に悔い改めをもって出ましょう。みことばに従順しましょう。恵みを悟る者でありましょう。ハレルヤ!