和解することの務め

信望愛(Okazaki Hope Chapel Monthly Bulletin)2025年4月号より

「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」
第2コリント5章:18~19

「人がひとりでいるのは良くない。」 これは神さまの創造の初めから私たちに与えられている祝福です。人はひとりでは生きられない。私たちには家族が、共同体が必要です。それが神の家族、キリストのからだなる教会の存在です。その関係の中で神の愛を知り、お互いを受け入れ合い、お互いに仕え合うためです。しかし、人が集まるとき、必ず起こるのが意見の相違、受け入れ難い溝、自己正当性による裁きや敵意などです。

この壊れてしまった関係を回復するには、人間的な方法論ではなく、神さまからくる和解の務めを受け取るしかありません。そのためにまず覚えたいのが、神さまが神の家族、その共同体の中で「神の愛」を学ぶことを良しとされているということです。私たち神の家族は、イエスさまによって「神との和解」を与えられた者として、「和解」を作り出していく者とされているのです。その和解は、本当の意味でイエスさまの十字架が分からないと作り出すことは出来ません。

聖書で言う「平和(シャローム)」とは、「争いがありませんように」ということではありません。もっと積極的な意味で、「神さまによるあらゆる良いことを持って満たされますように」という祝福に満ちた言葉です。「争いの中にあっても」神さまの良さが満ち溢れるようにという祝福です。
和解も同じです。和解とは「考え方の違いがあってはいけない」とか「みんなの同意がなければ」ということではありません。考え方の違いがあっても、神さまに赦されている者として一緒に歩んでいくことができるという「キリストにある務め」です。
私たちは互いに責任を負い合う存在として、お互いを戒めるならその責任も負う必要があります。それが「共に喜び、共に涙する」関係です。

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」
私たち罪人は、この壁を壊すことはできません。どんなに善行を積んでも、どんなに打ち叩いてもできません。私たちが十字架の前に出て行くとき、敵意は取り除かれ、関係が回復します。私たちは、このキリストを誇る者たちだからです。
ハレルヤ!

牧師 佐藤耕二

日本語訳聖書は「聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会」を使用しています。

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