「想像を越えたあわれみ」カバーリングの学び 第13回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2025.4.6)より
聖書箇所:列王記 第一 21章 17~29節

「わが敵よ」神のことばを敵にしたアハブ

ナボテを殺してぶどう畑を取り上げたことに対して、神さまはとうとうエリヤを通して、アハブにさばきの宣告を与えられます。実際にナボテを殺したのは町の権力者たちで、それを企だてて命じたのはイゼベルでした。しかし、アハブはナボテが死んだと聞くと、すぐ立ち上がって、ナボテのぶどう畑を取り上げようと、なんのためらいもなく意気揚々と出ていきました。主の声を聞かないようにしたアハブはサタンの声に引きずられ、どんどん罪の奴隷となってしまいました。

信仰は聞くことから始まります。ここでアハブはエリヤに「わが敵よ」と言います。アハブが預言者を敵とみなしたということは、神のことばを敵にしたということです。エリヤは、アハブ一族、つまりオムリ王朝の陥落、さばきについて預言します。そのさばきは、アハブだけではなく、オムリ王朝=オムリ、アハブ、アハズヤ、ヨラムへと続き、ヨラムの時にエフーによってアハブの家は滅ぼされます。そのさばきは、誰からも尊重されることなく死んでいく、弔う者もなく、犬や鳥がその死体を食うという悲しいものでした。

しかし、ここからです!

アハブはエリヤの預言を聞くと、衣を裂き、荒布をまとい、断食して悔い改めの心を、行動をもって表します。今までも、到底悔い改めるように思えなかった人が、意外にも突然悔い改めます。いや〜さすがに遅いんじゃないのと。。。散々好き放題やってきて、イスラエルに偶像礼拝を持ってきて、神さまを罵(ののし)ってきたベン・ハダテと同盟を結んでしまったり、挙げ句の果ては自分の欲のためにナボテを殺してしまったり。もうさばきの宣告もされたし、さばかれてもしょうがないと私たちは思ってしまいます。

神さまは悔い改めた者の声を聞いてくださる

「あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」
列王記 第一 21章29節

なんと!神さまはへりくだって悔い改めたアハブに対し、あわれみを注がれます。悪しき異邦人の町ニネベに対して、ヨナがさばきの宣告をすると、その王から家畜に至るまで断食して悔い改め、ニネベは神さまのさばきを免れました。ヨナはなんだか悔しい気持ちになり、フテ腐ります。でも神さまは、その町の人々を赦して生かしたいと願われました。

「ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」
ヨナ書 4章11節

ここでも同じです。神さまは悔い改める者の声を聞き捨てられることは決してありません!どんなに悪の限りを尽くした者であっても、私たちがもう遅い!と思っても、神さまはその声を聞いてくださいます。神さまは、いつでも簡単にアハブを滅ぼすことが出来たのに、最後の最後までアハブを見捨てず、あわれみをかけられます。なんという忍耐とあわれみでしょうか。そのあわれみのゆえに、今の私たちがいることを覚えます。イエスさまの十字架を覚えます。ハレルヤ。

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