岡崎ホープチャペル発行の週報(2025.5.11)より
聖書箇所:列王記 第二 3章 1~20節
列王記 第二 3章2~3節
アハブの子ヨラムは、
父アハブが作ったバアルの柱は取り除いたが、悔い改めをもって神を恐れることはなかった。まだ罪に執着し、形だけの信仰者だった。偶像を愛していた。その信仰は、人生のあらゆる決断の時に出てくる。モアブとの戦いについても神さまに尋ねることなく、ユダの王とエドムの王を従えて戦いに行きます。当時のイスラエル王朝は権力を持っていたので、南ユダや隣国に影響を与えていました。しかしヨラムは形だけの信仰なので、自分の決断、自分の力、自分の経験、自分の財により頼んで問題を解決しようとします。
そして、その決断に問題が起こり始めます。進軍7日目に兵士と家畜のための水がなくなってしまいます。するとヨラムは、神さまが自分たちをここに集めてモアブの手に渡そうとしていると、神さまに対して恨みごとを言い始めます。。。神さまに尋ねず、自分勝手に行ったのに、神さまのせいにします。自分の計画に執着して、それが上手くいかないと神さまに愚痴をこぼします。それが、形だけの信仰者の姿です。
一方ユダの王ヨシャファテは、
問題の中で神さまのみこころを求めます。神さまのことばを求め、神さまの助けによってこの危機を抜け出そうとします。ヨシャファテは信仰の人でした。レビ人と祭司を尊び、ユダの人々に神さまのみことばを教えました。アモン人とモアブ人の連合軍がユダに戦いを仕掛けてきたときも、断食と賛美によって勝利をもたらしました。(歴代誌第二20章3節、20~21節)。
ここでもヨシャファテは主の預言者がいるかどうかを尋ねました。エリシャは、ヨシャファテの顔を立てて、ヨシャファテに神さまの勝利があることを約束されました。ヨシャファテがいなかったら、「私はあなたに(ヨラムに)目も留めず、会いもしなかっただろう。」と、ヨシャファテのゆえに、イスラエルの王は神さまのあわれみを受けます。そして、乾季のときは干上がっているワディ(枯れた川)に水が満ちます。大水が流れ出します。神さまの恵みにより、上流の方で、大雨が降ったのでしょう。
私たちの信仰はどちらでしょうか?
この世を愛し、自分勝手に歩んでいるのに問題が起こると神さまのせいにする。神がいるならどうしてと。それとも、主のみことばを愛し、問題の中でも主を仰ぎ見、主にあわれみを求める者でしょうか。主を恐れる者でありたいですね。そして、私たちを通して、神さまのいのちが祝福が流れ出すように祈りましょう!ハレルヤ。