岡崎ホープチャペル発行の週報(2025.6.22)より
聖書箇所:列王記 第二 6章 1~7節
この箇所はとてもワクワクするシーンですね。
エリシャと一緒に住んでいる場所とは、預言者学校のことです。エリシャと弟子たちの預言者学校が成長して、学びに来ている人を収容しきれなくなっていました。そこでエリシャの弟子たちは、ヨルダン川の辺りに新しい預言者学校を建てようと提案します。エリシャも快く承諾し、共にヨルダン川に出向いていきます。新しい場所探し、建築、みんなで一緒に建て上げる、懐かしい思いもありますが、今もまだ継続中ですね。岡崎ホープのこととダブらせると場所がいっぱいあって良いな〜と思いますが、私たちの周りにも霊の目を開いて見上げれば、場所はいっぱいあるのかもしれません。
さて、ある弟子が木を切り倒していた時、
斧の先っぽが取れてヨルダン川に落ちてしまいます。「斧の頭」と訳されていることばは、新共同訳では「鉄の斧」と記されています。原語でも鉄製の斧のことのようです。鉄製の斧は当時非常に高価だったので、預言者学校の弟子たちでは所有することが出来ず、その斧を人から借りてきたのでしょう。だからそれは大切な物でした。預言者学校を建て上げよう!と、喜んで犠牲を払いつつ奉仕をしている中で起こったトラブル。。。神さまのためにと進み出したのに、人から預かった大切な物を失ってしまった。それも、自分では弁償できない。その弟子はとっさに「ああ、主よ、あれは人から借りた大切な物なのに」と嘆き祈ります。
それを聞いたエリシャは、
斧が落ちた川の水面に一本の木の枝を投げ込みます。すると、鉄製の斧の頭が浮かび上がってきたという奇跡が起こります。これは自然法則を超えている出来事です。どうやって鉄で出来た斧の頭が水に浮かぶということができるでしょうか。それはありえないないでしょう。一本の枝が何を意味するかはそれぞれの解釈があるでしょう。しかし、ここで覚えたいのは、私たちの人知をはるかに超えて働いておられる神さまに期待することです。斧を川に落としてしまった弟子は、再びその斧を手に取ります。そして、恵みによって与えられた斧をもって、またその働きに喜んで仕えたことでしょう。
私たち共同体は、そのような神の奇蹟がすでに与えられています。そのことをお互いが良く理解しながら、教会は人間的な集まりでありますが、霊的にはすべてに勝利してあまりあるキリストのからだであることを覚えて、お互いに仕え合いましょう!問題に対して批判したり、責め合うのではなく、一本の枝を切ってそこに投げ込むとき、絶対浮かぶことのない鉄製の斧が浮かぶのです。ハレルヤ!