岡崎ホープチャペル発行の週報(2025.6.29)より
聖書箇所:列王記 第二 6章 14~23節
列王記 第二 6章22節
エリシャの召使いは朝早く起きると、
アラムの軍隊がドタンの町を完全に包囲しているのを見ました。その光景を見て、恐れと絶望を感じるエリシャの召使い。私たちの人生にもそのように見える日常が訪れることがあります。八方塞がりのような、目に見える問題が次々と起こってくる。すると、全能なる神さまのカバーリングの中にいることを信仰の目で見ることがなかなかできません。問題ばかりに目がいってしまい天を見上げることを忘れてしまいます。いつしか恐れと不安に囲まれ、世の捕虜とされている状態におちいってしまいます。
しかし、そんな彼にエリシャは目が開かれるようにと神さまに祈ります。エリシャが祈ると、火の馬と戦車が彼らを取り巻いて山々に満ちているのを見ます。霊の目が開かれたのです。私も経験したことがあります。聖霊に満たされた時、霊の目が開かれて、今までのすべての恐れ、縛りが解かれていきました。神さまの愛とキリストの恵みが満ち溢れて、それ以来自分の信仰、イエスさまとの関係、生き方が全く新しくされました。私たちはなかなか気付きませんが、私たちの人生には主の軍勢がついています。自分が見えてないことを認めて祈るとき、主が御霊により霊の目を開き、見ることが出来るようにしてくださいます。ハレルヤ、聖霊さまを求めましょう。
世の捕虜になるのではなく、世を捕虜として導く者
続いてエリシャが、自分を捕虜として捕まえに来たアラム軍に対して彼らの目を盲目にしてくださいと祈ると、神さまは彼らの目を閉しました。そして彼らが気がつくと、彼らはイスラエルの首都サマリヤのど真ん中に、イスラエル王の前で捕虜として捕えられていることを見るのです。エリシャは、世の捕虜になるのではなく、世を捕虜として導く者となります。神さまがエリシャを助け、守られたからです。
この世を治められる主権者なる神さまを認め、神さまの守りの中で生きるとき、世に流され、縛られる人生ではなく、それを打ち破って勝利を与えてくださる神さまの栄光を見るのです。イスラエルの王は連れてこられたアラムの軍隊を見て、彼らを殺そうとしますが、エリシャは彼らにパンと水を与えて、彼らを癒し、解放します。イエス・キリストにある救いのようです。イエスさまによって罪の奴隷から解放され、永遠のいのちを与えられた私たちも、同じようにキリストの愛をもって、すべての人々のためにいのちの福音を伝える使命があります。エリシャは、使命のためにいつも前を向いていました。私たちも使命のために、いつも前を向く者でありましょう。