岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.06.09)より。
「創世記」信仰の父アブラハム 学び第22回
聖書箇所:創世記 18章16節~33節
「その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。」18章22節
創世記18章に入りまして、三人の人がアブラハムのもとに訪れます。
二人は御使いであり、一人は人のかたちをとった主ご自身がアブラハムに現れます。
その目的の第一は、アブラハムにではなく、サラにありました。
ときに恵みを恵みとして受け取れない私たちに、神さまの方から近づいて来て、恵みを見せてくださいます。
そして神さまに信頼することを教えてくれます。
そして神さまが訪れた第二の目的は、アブラハムの甥のロトが住んでいるソドムの滅亡を、前もってアブラハムに知らせるためでした(16~17節)。
二人の御使いはソドムのほうへ立ち去って行きますが、アブラハムは「まだ、主の前に立って」主の前に立ち続けます。
彼は、ソドムに対する神さまのさばきを聞いた時、「はい。そうですか。」と言って、主の前を去ることができませんでした。
アブラハムは、滅びる者に対して無関心ではいられなかったのです。
「何とかして滅びる者たちが救われるように」と神さまに交渉します。
これが「とりなしの祈り」です。神さまと人々との間に立ってとりなす祈り、それが「祭司の祈り」です。
27節の「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に」「主の前に」という表現も非常に重要なポイントです。
アブラハムは、自分の義によってとりなすのではなく、自分の罪を認めて主の前にへりくだって祈り、交渉し続けます。
自分の正しさ(正しい者として)、義人として訴えかけるのではなく、神さまご自身の性質、公義に、あわれみに訴えかけているのです。
もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」
私たちのとりなし祈りも、ここに根拠があります。
主の義とあわれみ=イエスさまの十字架によって祈るのです。
2.それと同時に、主が大いなるあわれみの故に人の罪を赦してくださることを信じ、人々の救いのためにとりなして祈る者となりましょう。