「ミナのたとえ」ルカの黙想:学び第42回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2023.11.26)より
聖書箇所:ルカの福音書 19章 11節〜28節

「人々がこれらのことばに耳を傾けていたとき、イエスは続けて一つのたとえを話された。イエスがエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐに現れると思っていたからである。」
ルカの福音書 19章11節

主題:神の国はいつ来るのか

ここには、これからイエスさまが語られるたとえ話の「主題」が提示されています。その主題とは「神の国はいつ来るのか」ということです。「人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていたからである。」と言うのは、その誤解を解くために語られたたとえ話です。

ルカの福音書17章20節では「さて、神の国はいつ来るのか」という質問をパリサイ人から受けてイエスさまは「神の国は、もうあなたがたのただ中に来ている」と言われました。その例証が取税人ザアカイの救いです。イエスさまは「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」と言うのです。

しかし神の国の概念にはもう一つ、

再び来られるイエスさまを知る必要がありました。十字架の死と復活、そして人の子が王権をもって再び来られることを伝えるために、この「ミナのたとえ」をイエスさまは語られます。みなさんは、イエスさまが語られた「タラント」のたとえは良く知っていますよね。タラントのたとえでは、それぞれに与えられた賜物の量が違います。そしてその額が桁違いです。一タラントは約6000万円、一ミナは100万円程度です。そのミナは、すべての人に同じだけ与えられています。タラントのたとえでは、異なるタラントで同じ忠実さが示されますが、ミナのたとえでは全く逆で、同じミナで異なる忠実さが示されています。

その一ミナとは、すでに恵みによって私たちに用意されている同じ救いです。そしてその救いに対する従順がミナの話しです。その一ミナを用いてどのようにイエスさまのことばに従順したのか。神さまの栄光のために、その救いをどれほど誇ったのか。その救いの喜びがどれほど増し加えられたのか。あなたがたのただ中にある神の国の喜びがどれほど増えているのか。それがミナのたとえです。その救いの喜びは、主に信頼することによって増し加えられるのです。

主に信頼することがないなら、みことばに従順することもできません。

一ミナをただ隠し、しまっておいたしもべのようです。そのしもべは主人に言い訳をしますが、その理由は自分の過ちではなく、主人の性質、あなたが奪い取る方だからと言うのです。自分の不忠実を、主人のせいにして、私は一生懸命やってきたんだと言い訳をするのです。ここには、恵みの世界で生きるか、自分の行ないの世界で生きるのかの違いが出てきます。持っている者がさらに与えられるのが恵みの世界です。イエスさまを王として歓迎しなかった人たちは、最終的なさばきがあります。今が恵みの時、救いの日です!どんなに言い訳しても、今が恵みの時だから、その救いを喜びましょう。

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