信仰を具体化する エズラ記9

信望愛(Okazaki Hope Chapel Monthly Bulletin)2022年11月号より

「そのため私たちはこのことのために断食して、自分たちの神に願い求めた。すると、神は私たちの願いを聞き入れてくださった。」
エズラ記8:23

先月号記載の7章ではエズラが主の栄光のためにエルサレムに向かうことが決まり、8章では誰がエズラと一緒に向かったかが載っています。彼は再建された宮で最高の礼拝をささげたいと願って故郷に向かったのでしたね。そのため彼が連れ立った中に神殿での奉仕ができるレビ人をきちんと加えています。
さらに、18節「賢明な者」が集められました。3版では「思慮深い人」と訳されています。彼らは、聖書の教えをきちんと民に広めるエズラの働きを助けるためでした。現代のクリスチャンは恵みよって王である祭司とされています(1ペテロ2:9)。彼らのように賢明な者でありたいですね。ここでは「分別のある」という単語が用いられています。礼拝者として、感情や自分の気持ちをコントールし、わきまえるという姿が求められているのです。

エズラの希望でもありますが王の命令でエルサレムに向かうので、国の護衛を頼むことが普通なのですが、22節「道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを、王に求めるのを恥じたからであった。」とあります。

自分が信じている神さまは素晴らしいんだよと周りに伝えたけれど、ちょっと不安で保険をかけてしまう、みたいなことが私たちの日常生活の中でよくあるのではないでしょうか。エズラも王の前で大胆に語ったはいいけれど、4ヶ月ほどかかる道のりを小団体で献げ物を携えて旅をするのに怯んでしまいかけたのかもしれません。
しかし、彼は神さまなら守ってくださるだろうと見込んで護衛を頼まないという選択を取りました。ここに彼の信仰が表れています。
私たちも信仰を具体的にすることを求められています。むしろ、具体化された「信じる」が、信仰なのではないでしょうか。

エズラの信仰を見た主は23節「神は私たちの願いを聞き入れてくださった。」とあります。そして31節「その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から私たちを救い出してくださった。」と導かれていきます。無事に到着するようにとの願いは敵が現れなくなるようにではなく、敵が立ちはだかる中でも乗り越えて進むことができるというのが主の守り、平安なのです。

エズラのように私たちも「信じる」を諦めずに続けていきましょう。

伝道師 深谷さおり

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