「約束の時が来て」その① 信仰の父アブラハム 学び第25回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.06.30)より。
「創世記」信仰の父アブラハム 学び第25回
 聖書箇所:創世記 21章1節~7節

「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。」

①「約束を見る」
アブラハムは75歳のとき、神さまから「自分の故郷を去って、わたしの示す地へ」向かうように命じられました。
そうすれば、アブラハムは大いなる国民となり、あなたから祝福が流れるとの約束を受けました。
その言葉を受けてアブラハムは、行き先を知らされずに出発したのです。
75歳から本当の意味で、主に従うアブラハムの人生が始まりました。
それから25年。ここに至るまで様々な経験をしてきました。

“ 神さまの約束を生きる ”というアブラハムの人生、その約束の意味はゆっくりと示されてきました。
先が見えない中での不安、格闘があり、みこころを求めるがゆえの悩みを経験してきました。
自分なりの判断によって、幾度かの失敗を経験ました。
アブラハムは決して完璧な信仰者ではありませんでした。
自分の弱さを抱えながら、しかし神さまの恩寵の中で豊かに取り扱われていく、一人の信仰者の姿です。
そのようなあらゆる経験を通して、見えざる神さまへの信頼が建て上げられていくのです。
信仰は、神さまのことばに応答して生きるとき与えられるものです!
決して私たちの強さではありません。

こうして創世記の21章に至ってようやく、神さまの約束が実現するのです。
「主は、約束されたとおり、仰せられたとおり、なさった。」1節。
あえて繰り返すことにより、神さまが約束に対して必ず成し遂げられることを強調しておられます。
神さまは誠実な方です。
アブラハムとサラは25年もの間、この約束を待たなければなりませんでした。
待たされている間、サラに子どもが宿るという徴候すら見ることができませんでした。
それどころか、自然の法則からすれば、それは完全に不可能な状況になっていました。

でも聖書はそのような時に、「天を見上げなさい!」と幾度も語られます。
天の御国を見るように招きます。神の国とその義を第一に考えなさいと。
「私は山に向かって目を上げる。」との告白を喜ばれます。
アブラハムもサラもその信仰を試されました。
ヘブル11章には、「約束してくださった方を真実な方と考えた」とあります。
これが信仰です。信仰者は約束を見るのです!
もしあなたが今、神さまの約束を握っているなら、その約束を見続けてください。
約束の時が来て、神さまは必ずその約束を果たされるからです。ハレルヤ!

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