「昼間のうちに」創世記マスタープラン 学び第4回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2021.03.21)より
聖書箇所:創世記 1章4節~5節

「神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。」

神さまは光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。それはどういうことでしょうか?
神さまが、その対象であるものの性質や役割に従って名前を付けました。神さまにその権威と支配権があるからです。天も地も、光もやみも、海も陸も、太陽、月星も神さまの支配の中にあります。すなわち、光とやみのそれぞれの性質に従って、光を昼として区別し、やみを夜として区別し名前をつけます。神さまのマスタープランを知るために、今回は目に見える昼と夜の概念ではなく、シャカイナグローリーの概念でみことばを通して「昼と夜」をみていきましょう。

イエスさまが言われた「昼と夜」の概念について

ヨハネの福音書9章1~4節
「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが(神さまの栄光が)現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。」

この箇所で「昼」と「夜」ということばをイエスさまは語っておられます。
この世の宗教は、苦しみや病の現実にぶつかるとき、これはなにかの罰ではないか、のろいではないか、先祖のたたりや因縁ではないかと考えます。因果応報の教えです。ところがイエスさまの視点は、全く違った視点からの答えでした。それは「この人が生まれつき盲人なのは、神のわざがこの人に現われるため」だというのです。神さまの栄光が現されるため、癒し、回復、救いがなされるためですと。苦しみの原因を詮索し、罪に定めることが神さまの計画ではなく、盲人の目に光をもたらすことが神さまの計画です。そして、この盲人に神のわざが現わされることが「昼」ということだと説明しています。反対に「夜」は神のみわざが現わされない「盲目の状態である」ということを指しています。これが昼と夜の霊的な概念です。パウロもこのシャカイナグローリーの光によって霊的な目が開かれます。

私も、あなたも、「わたしたちは」神さまのみわざを「昼の間」に行わなければならないと言うのです。

なぜならば、だれも働くことのできない「夜」が来るからであるとイエスさまは言われました。その「夜」とは、わたしたち教会が携挙された後の世界ですね。昼の間に、夜が来る前に、わたしたちは神さまから託されたわざをなしていかなければなりません。時が縮まっているからです。ハレルヤ!

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