「最初の選択」創世記マスタープラン 学び第24回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2021.08.08)より
聖書箇所:創世記 3章5節~7節

「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」

この箇所は人類史上一番最初の「選択」について、人が自ら選び取ることについて書かれた所です。私たちが何かを選択し、決断し、実行するためには、その選択を決断するための基準が必要となります。どの道に行くのか。何が正しいのか。どの解釈が正解なのか。多くの場合、その基準は時代とともに変わったり、置かれた立場や、体験や知識によっても変わってきます。その基準が「みんな」だったり、多数の意見だったり、もっと分かりやすく言うなら自分の願望を満たすための基準で選択しようとします。

サタンの目的は「基準を壊すため」

創世記3章に入り、サタンがエバに語りかけ、神さまの安息からアダムとエバを引き離そうと惑わしてきます。そして結局サタンがアダムとエバの選択をそそのかして決断させたことは、アダムとエバに「善悪の知識の実」を取って食べさせることでした。サタンは、一緒にこのエデンの園から出て行こう!とか、一緒に神に反逆して訴えよう!とは呼びかけません。「善悪の知識の実」を食べさせる、そのことにこだわりました。なぜでしょうか?

それは「基準を壊すためです」。サタンの目的は、それだけで十分だったのです。その木から取って食べる以前は、アダムとエバは善悪を知る必要がありませんでした。2人が「善悪を知る木」から取って食べる以前は、善悪の基準は「神さまのことば」だけであり、2人には善悪の基準がなく、善悪の判断は必要なかったのです。それゆえ「神さまが善と言えば善であり、悪と言えば悪であった。」のです。つまり、人間が善悪について口を出す必要はなかった。。。

しかしアダムとエバが、神さまの基準に逆らって「善悪を知る木」からその実を取って食べた時点から、今までの神さまとの関係が一変してしまいました。何が変わったのでしょうか?悪を行うことができる人間が善悪の判断をすることになります。 神さまのトーブ(良さ)は変わりません。しかし、悪を選択する人間が善悪の判断をするようになったのです。それが今の私たちの「世」です。

私たちには基準が必要です。

いつの時代にも、何が起こっても、どんな問題にも、変わることのない基準が必要です。その基準が「いのちの木」、イエスさまの十字架です。これさえ持っていれば、これさえ指し示めせればほかの基準はいりません。いつもイエスさまの十字架を選択できますように!

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