「信仰が与えられる恵み」その① 信仰の父アブラハム 学び第20回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.05.26)より。
「創世記」信仰の父アブラハム 学び第20回
 聖書箇所:創世記 18章1節~15節

サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」18章15節

①信仰を働かせる。
ここを読むと、神さまは人の姿をとられ、2人の御使いとアブラハムに現れます(18章22節、19章1節)。
そこでアブラハムは、彼らを見るなり、彼らをもてなしました。
そして自ら走り寄っていき、「地にひれ伏して礼をした。」礼拝したということです。

彼らの訪問の目的のは、アブラハムだけにでははなくサラにあったようです。
神さまは、アブラハムのもてなしを快く受けながら、アブラハムに尋ねます。
あなたの妻サラはどこにいますか。」サラが後ろの天幕にいることを知ると、主はアブラハムと話しながら、実はサラに向かって話します。
この約束は、すでにアブラハムは聞いて知っていました。
でも、サラはまだ聞いていません。
だから神さまはサラに祝福のことばを直接伝えたいと願ったのだと思います。
神さまの愛ですね。
サラの葛藤も、彼女の寂しさも全て知っている神さまご自身が、自ら喜びを知らせに来たのです。

でもサラはその約束を聞いて、夫アブラハムと同様に、心の中で笑うのです。
現実に生きる人間が、それをはるかに超えた大きなことを突きつけられて、それをとても受け止められずにいる状況です。
これは不信仰でしょうか。
みなさん、信仰とは、盲目的に何かを信じ、それを決して疑わないでただ念じるということではありません。

信仰とは、神さまとの信頼関係です!
みこころを求めて迷う中で、失敗を繰り返しながら、この信仰の歩みは整えられていきます。
その中で、神さまとの親しい信頼関係が深められていくのです。
神さまを認めることです。
この信頼関係、神さまとの交わりが密になって深まることが、信仰の成長です。

私たちも神さまに対する信仰はあります。
でも、いつしか日常の歩みの中で、全能なる神さまを覚えることができずにいるということはないでしょうか。
「神さまが何とかしてくれる。」「祈りましょう。」と言いつつ、どこかで自分の経験の判断にとどまるということはないでしょうか。

信仰の父アブラハムを学びながら思わされることは、私たち一人一人は神さまのご計画の中に基づく恩寵(恵み)に生かされているということです。
だから、現実だけを見つめて落ち込むのではなく、与えられた信仰を働かせて恵みの中にとどまりましょう。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする