「最初の選択 ②」創世記マスタープラン 学び第25回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2021.08.15)より
聖書箇所:創世記 3章5節~7節

サタンは善悪の知識の実を食べると

目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となる」と言ってアダムとエバを騙しました。言い換えるなら、神さまによって創造された人間が、創造主である神のようになるということです。確かに「神のかたち」に似せて私たちは造られましたが、私たちは神にはなれません。陶器師によって創られたはずの器が、それを創った陶器師であるかのように振る舞い、善悪の基準を定めるのです。神さまを差し置いて、自らが最終的な善悪の判断者になろうとするのです。それがサタンの存在そのものですね。

「善悪を知る木」から取って食べると

あなたは必ず死ぬ」と神さまが言っているのに、あえて取って食べるという行為は、人間が持つ罪の深刻さがここにすべて表されているように感じます。蛇は神さまとは正反対のことを言っているのに、アダムとエバは蛇の声を選んでしまいます。もしエバが神さまの基準によって、神さまのことばによってその木を見たのであれば、その実を食べることは決してなかったはずです。神さまが「必ず死ぬ」と言っているのだから、二人がその実を食べることは、まさに自殺行為そのものであります。しかし、この場合アダムとエバは、ほんとうに死にたいから食べたのでしょうか?いや違いますね。。。それは「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」というサタンのことばを信じたから、その声を選んでしまったから食べたのです。

エデンの園は、神さまの良さが完全に満ちた楽園であります。

食べ物は豊富にあり、衣服もいらないほど気候は温暖であります。すべての良いものが満ち足りた状態であり、欠けたものが何一つない歓喜の場所です。これほどまでの理想郷に住んでいながら、人は自分の置かれた状況に満足せず、神さまのことばに逆らうのです。どれほど罪の性質が深刻か。。。改めて考えさせられます。それは私たちの罪は、私たちの傷や、痛みや、生まれた環境のせいでもなく、人は、どんなに満ち足りた場所に置かれていても神さまに反発しようとする性質があるということです。刑務所伝道をしていて、時にその人の置かれた人生の痛みを知ります。でもそれだけが要因ではないのです。それが人の罪深さであり、それが私の罪でもあります。

人は自分の基準で生きるようになり、死への道を選択したことになります。

そして、死の道を選択した後の人間の歩みは、今の私たちを見れば分かります。私たちには基準が必要です。どんな問題にも、いつの時代にも、変わることのない基準が必要です。
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
いのちの木の回復。それが神さまの計画です。あなたが何かを選択するとき、あなたは何を選びますか。

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