和解の務め

信望愛(Okazaki Hope Chapel Monthly Bulletin)2021年9月号より

「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」
コリント人への手紙第二 5:18~19

今回のテーマは「和解」です。私たちには神の家族、共同体が必要です。お互いを建て上げ、仕え合うためです。しかし人が集まるとき、必ず起こるのは意見の相違(距離)、理解の欠如(溝)、自己正当化(否定)による人間関係の亀裂や傷です。それでは、「壊れた交わりを回復」するにはどうしたら良いのでしょうか? 方法論ではなく、イエスさまが私たちに与えた務めに目をとめてみます。

①和解を作り出す者。
まず覚えたいのは、神の家族や共同体の中で「神の愛」を学ぶことを、神さまが良しとされていることです。イエスさまの十字架により「和解」させられた者として、「和解」を作り出していくことです。この務めは、イエスさまに変えられた者の幸いです。「和解」は、本当の意味で十字架が分からないと、自分で作り出すことはできません。

②違反行為の責を負わせない。
聖書で言う「平和(シャローム)」は、「戦いがないように」ということではありません。もっと積極的に「神さまによるあらゆる良いことを持って満たされますように」という祝福の言葉です。
和解も「みんなの同意がなければならない」ではありません。あえて争いを生み出さないといけない時もあるのです。分離しなければならない時もあります。
和解の務めを果たすには、神さまの和解を心から受け取る必要があります。それは「違反行為の責を負わせない」神さまの和解です。無責任な赦しではなく、間違いや罪に対して目をつぶることでもありません。罪を指摘するとき、悔い改めの道も示していかなければなりません。互いに責任を負い合う存在として、お互いを戒めます。「共に喜び、共に涙する」関係であり、とりなしの祈りですね。

③イエスさまの十字架は隔ての壁を打ち壊します。
隔ての壁は自分たちでは壊せません。どんな善行も、自分を打ち叩いても、この壁を壊すことはできません。そして、この壁の中で苦しみ、悲しみ、もがいてきました。当たり前のことと思っていました。しかし、私たちが十字架の前に出て行くとき、敵意は取り除かれ関係が回復します。「キリストこそ私たちの平和」です。
ハレルヤ!

牧師 佐藤耕二

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