「罪の結果」創世記マスタープラン 学び第27回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2021.08.29)より
聖書箇所:創世記 3章5節~7節

「こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。」
創世記 3章7節

前回アダムとエバの罪(的はずれ)について学びました。エバはだまされて的をはずしますが、アダムは分かっていて的をはずします。的をはずした二人がその木の実を食べたとき、何が起こったのでしょうか?蛇が言ったように「ふたりの目は開かれ」たのであります。やはり蛇が言ったことが真実で、神さまは、アダムとエバの目が開かれて「神のようになる」ことを恐れていたのでしょうか?それは違います。彼らの目は開かれましたが、「神のように」はなりませんでした。ふたりが見たものは「神のように」なった自分の姿ではなく、自分たちの裸の姿でした。。。

つまり自分たちは裸であって、神さまから離れたら、何のとりえもない者であることを知ったのであります。彼らは創造の初めから裸でした。それを見てお互いに恥ずかしいとは思いませんでした。しかし罪を犯して神さまから離れた今、恥ずかしいと思うようになったのです。神さまから離れてしまったふたりは、自分自身の中に絶対的な価値を見出せなくなります。神さまに絶対的に愛されているという価値を見失います。これが霊的な死です。的をはずすことによって本当の自分の存在価値を見失った人間は、自分の姿をいちじくの葉で隠します。

第一に神さまに対して隠します。

人は神さまのことばに逆らったので、神さまの前に自分のありのままの姿をあらわすことができず、取り繕って(いちじくの葉で)偽りの姿を神さまに見せようとします。神なしでも生きれると言わんばかりに。

第二に他人に対して隠します。

他の人に自分の弱さ、自分の罪深さ、自分の真の姿を見られることを恐れます。だから着飾り、見せかけの自分を装います。劣等感、羞恥心は罪の結果です。

第三に自分に対して隠します。

私たちは、自分に対して自分自身を隠します。自分の期待する姿と自分の現実のギャップに耐えられなくなるからです。だから自分を偽り他人に責任転嫁をします。そのうち自分自身の本当の姿がどのようなものであるかも忘れてしまい、覆いをつけた自分が本当の自分であるかのように思い込んでしまいます。

そのような罪から救われるためには「的に標準を合わせる」しかありません。あなたがイエスさまの十字架を見るとき、自分自身が裸であっても、自分を喜ぶことができるようになるます。自分に価値が見出せなくても、イエスさまの十字架を見るとき、神さまによって与えられた本当の自分の価値を知るようになります。イエスさまを見ることが、聖書でいう「悔い改め」です。ハレルヤ!

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