「父の心」ルカの黙想:学び第35回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2023.10.8)より
聖書箇所:ルカの福音書 15章 11節〜32節

最後にこのたとえのピークをお話しします。有名な放蕩息子のたとえです。

父の家から飛び出した放蕩息子が、やがて本来あるべき場所に戻ってきます。そして、その事を当然のように喜び、お祝いする父の姿があります。前回から学んでいるたとえの共通点です。しかし最後のたとえでは、喜びを分かち合うことが当然のように思わない兄息子の存在がクローズアップされています。二人の息子のたとえ話が伝えようとしている重要なポイントのひとつは、兄息子が抱えている「喜べない心」にあります。

「死んでいたのが生き返り、いなくなったのが見つかったのだから」

と言って、大喜びして弟息子を歓迎する父の祝宴に、兄息子は怒って入ろうとしません。喜べないからです。。。その言い分には「俺はこれまで長い間、どんなに一生懸命にお父さん仕え、お父さんの言うことを聞いてきたと思ってるのか」という悔しさがあります。また放蕩三昧をし、財産を食いつぶして帰ってきた弟に対する妬みがあります。そしてその弟に対する父のあまりにも好意的な振る舞いに対して、どうしても我慢がならないのです。そこには、感謝も自由もなく、ただひたすら父に仕え、父に従ってきた兄の姿があります。

そんな兄息子に対して、父は近寄って「彼をなだめ」ます。

「なだめる」と訳されたことばは、「パラカレオー」と言い、「そばに呼び寄せる、願う、頼む、元気づける、慰める、なだめる」という意味があります。このことばの名詞形は「パラクレートス」で、「助け主」を意味する聖霊さまについて使われています。父は兄を責めることもなく、「子よ」と呼びかけ、親愛の情をもってかかわろうとしてくれます。兄は、いつもその父の愛の最もそばにいながら、父の心が分からず、父との間には大きな淵がありました。

弟も父から離れていたのですが、兄も父から離れていたのです。

弟が父から離れていることを「死んでいた」と父は表現していますが、そばにいる兄も実は「死んでいる」のです。弟の方は「死んでいた」のが、父の家に帰ってくることで「生き返った」と表現していますが、兄はまだそばにいるのに「死んだまま」なのです。ルカの福音書15章にある三つのたとえは、本来、取税人や罪人たちを受け入れて、食卓を共にしているイエスに対してつぶやき続けている「バリサイ人」「律法学者」たちに対して語られたものでした。イエスさまにとって、パリサイ人と律法学者たちも、いなくなった1匹の羊であり、兄息子でもあります。

私たちも同じように神さまとの関係に淵がないでしょうか?イエスさまの恵みに対して、自分の義で制限をかけていませんか?今日、もう一度神さまの御前に素直に出て行きましょう。

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